JR津田沼駅の南側の台地を中心に,谷津貝塚が確認されている. 7世紀末(飛鳥時代)から10世紀前半(平安時代)にかけての集落の跡と推定され,竪穴住居跡が 400軒以上,掘立柱建物跡が 200棟以上見つかっている.
1880年(明治13年)ごろの谷津地区(左). 1917年(大正6年)ごろの谷津地区(右).
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吾妻鏡あずまかがみ歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」には,1180年(治承4年)10月に源頼朝が鷺沼御旅館に宿泊したと記録されている. 鷺沼御旅館のあった場所はわかっていないが,鷺沼城址公園あたりではないかという説がある.
1944年(昭和19年)ごろの谷津地区(左). 1945年(昭和20年)ごろの谷津地区(右).
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江戸時代の習志野市域には,谷津村,久々田村(くぐたむら),鷺沼村,藤崎村,実籾村(みもみむら)などがああった. すでに100万都市となっていた江戸に魚貝類や野菜などを舟などで運んでいた.
1974年(昭和40年)ごろの谷津地区(左). 1974年(昭和49年)ごろの谷津地区(右).
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1889年(明治22年)には,谷津村,久々田村,鷺沼村,藤崎村,大久保新田村の5村が合併して津田沼村が誕生する. まだ,人口 4500人程度の村だった. 津田沼村の初代村長だった伊藤彌一(いとうやいち)らが中心となって,谷津干潟に入浜式の伊藤新田(谷津塩田)を造る.
1975年(昭和50年)ごろの谷津地区(左). 1979年(昭和54年)ごろの谷津地区(右).
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入浜式塩田は,堤防を築いて外部の海と区切り,潮の干満差を利用して堤防内に海水を取り入れ,その海水を砂浜に散布,天日によって水分を蒸発させて海水を濃縮(採かん)する. さらに釜に入れて煮詰める(煎ごう)という方法で(塩化ナトリウム)を作る. 1911年(明治44年)7月26日の台風により,東京湾岸の品川,深川,本所(墨田区)の沿岸部の6万戸が高潮で浸水する.
1992年(平成04年)ごろの谷津地区(左). 2013年(平成25年)ごろの谷津地区(右).
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この台風で,谷津塩田も大きな被害となり,を生産できなくなる. さらに,1917年(大正6年)9月30日の台風による高潮で,復興不可能な状況となってしまい閉鎖に追い込まれる. この台風で行徳塩田(行徳新田),三田浜塩田なども壊滅する.
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谷津塩田跡地は,1921年(大正10年)に京成線船橋駅-京成千葉駅間を開通させた京成電気軌道株式会社(現,京成電鉄株式会社)が1925年(大正14年)に買収し,谷津海岸遊園(のちに谷津遊園)を開設する. 谷津海岸遊園の客のために,花輪駅(現,船橋競馬場駅)から 1.2km の谷津支線を引いていた. 谷津支線は,1931年(昭和6年)10月で運行休止となる.
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度重なる水害から東京を守るため,利根川の流量の約3分の1を東京湾に流す放水路が内務省によって計画される. 放水路は利根放水路(または昭和放水路)と言い,全長 29km にもなる壮大な計画で,谷津干潟が東京湾河口となる.
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その計画から,谷津支線があった場所と谷津干潟は内務省管轄地(干潟)となる. のちに,内務省管轄地から谷津干潟は埋め立てから免れることになる. 工事は1939年(昭和14年)から開始されたものの,戦争の悪化にともない1944年(昭和19年)で工事は中断することになる...続きを読む