江戸時代,外洋から江戸湾(東京湾)に入るためには海の関所に立ち寄って許可をもらう必要があった. それが,浦賀(現,横須賀市)の海の関所「浦賀奉行所」だった. その反対岸になる上総国木更津村(請西藩,現千葉県)と館山藩の船だけは,特例としてこの関所に寄らなくても江戸の日本橋や本所まで直接向かうことができた.
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1615年,江戸幕府(徳川家康と秀忠)と豊臣家との大阪夏の陣の合戦に,請西藩(木更津)の当主林吉忠(はやしよしただ)と水夫など24人らが,河内丹南藩(現,大阪府松原市)隊に属して参戦して活躍した. だが半分の12人が命を落とした. この功績により,請西藩(,現,千葉県木更津市)に,関所免除の特権が与えられた.
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これ以降,木更津(請西藩)は,潮来(いたこ,現茨城県)方面から銚子,太平洋を経由してが江戸に運ぶ荷物(穀類や炭,薪など)の集積地として繁栄することになる. すでに,世界最大の都市となっていた江戸の台所を支える.
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木更津と江戸の間は,「五大力船(ごだいりきぶね)」とよばれる船が行き来されていた. 通称木更津船とも呼ばれた. 五大力船は,大坂などの上方と江戸の消費地を結んだ菱垣廻船(ひがきかいせん/弁才船/貨物船)よりも船体の幅が狭く,8尺(2.4m)から17尺(5.2m)しかない. また,船底から水面までの深さが浅い構造となっている.
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江戸湾では帆を張って推進し,運河(河川)では櫓(ろ)をこいで進む船であった. 運河に入る場合でも,荷を積み替える必要がなかった. 全長は31尺(9.4m)から64尺(19.7m)ほどで,積載量は小型のもので50石(こく),大型で300石から500石程度だった. 1石はおよそ150kgで,大人1人が1年間に食べる米の量となる.
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江戸の本所(現,東京墨田区両国あたり)には木更津河岸という木更津船専用の荷上場があった. 木更津と江戸の間には,定期船が運行され,荷物のみならず人も運んでいた. 夜に江戸を発ち,明け方に木更津に着くような運行をしていた. 荷物と一緒に雑居寝状態だったと思われるが,今でいう夜行バスのようなものだったのだろう. 運航時間は順風の場合で4-5時間,旅籠(はたご)に2食付きで泊まると約200文(1両=4000文として換算すると5000円相当)だったが,船賃も200文ほどでほぼ同じ料金設定となっていた.
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浦安,市川,船橋沖の三番瀬は,最良の漁場となっていた. 船橋は,江戸幕府から特権が与えられ,この三番瀬をほぼ独占していた. そのようなことから,すでに大きな漁港となっていた.
江戸時代の江戸湾(東京湾). 行徳(現,市川市)から見た三番瀬(右).
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木更津からの「五大力船」は,船橋漁港に立ち寄り,ススキや貝,塩などを追加で積み込み,さらに江戸へ向かった...続きを読む