米国以外のディズニーテーマパークとして初めてとなる東京ディズニーランド(TDL)は,1983年(昭和58年)4月15日(金)に開園した.
その後,2001年(平成13年)9月4日(火)には,東京ディズニーシー(TDS)がオープンし,2013年4月15日で開園30周年を迎えている. その,東京ディズニーランドや東京ディズニーシーなどの巨大遊園地を運営しているのが,オリエンタルランド(OLC)だ.
その東京ディズニーランド(TDL)が作られることになったきっかけが,千葉県習志野市谷津3丁目にあった京成谷津遊園(現,谷津バラ園)だった.
当時の京成谷津遊園は,レジャースポットの先駆けとして,東京湾に面して造られた施設で,日本初の360度宙返りするローラーコースター(1977年導入)や海上ジェットコースター,観覧車など,大型のアトラクション施設が数多くあった.
京成谷津遊園(谷津園)の場所は,もともとは塩田地(伊藤塩田)であったが,度重なる台風の高潮により大きな被害を受けた. 遠浅だった谷津干潟を利用した潮干狩り場や海水浴場,釣堀などの娯楽施設に転用された.
谷津遊園が開園したのは,1925年(大正14年)で,当時は私鉄各社が乗客数を増やす目的で,鉄道浴線に遊園地を開設するのがブームだった.
当時の京成電気軌道(京成電鉄)も,京成遊園地(株)を設立し,この地を購入して遊園地の営業を開始する.
戦時中は,谷津遊園から谷津園に変更されたが,営業ができるような状態ではなかった. 終戦後(敗戦後)の1951年(昭和26年)には,当時としては珍しい淡水マンモスプールが新設される.
また,1958年に誕生した園芸施設も人気で,春の5月ごろにはバラなどのフラワーカーニバル,秋の10月ごろにはNHK大河ドラマをテーマにした菊人形展などと,大きなイベントが開催されていた. 関東一円からの日帰りレジャー施設として人気があった.
1958年,京成谷津遊園のバラ園で販売するバラの買い付けのため,京成遊園地(株)の社長だった川崎千春(京成電鉄社長)は米国に出かけた. そのとき,開園したばかりのディズニーランドにも出向く. そこには,谷津遊園とは比べようもない規模の,夢のようなディズニーの世界が展開されていた. ここで,川﨑は「夢のようなディズニーの世界を日本で展開したい」と決意する.
当初の日本のディズニーランド建設候補地は,千葉県浦安市舞浜の遠浅地と我孫子市の手賀沼に面した若松地区,長野県大鹿村,静岡県清水市と御殿場市,神奈川県横浜市と川崎市,茨城県ひたちなか市などが候補としてあがった.
最後まで候補に残ったのは千葉県浦安市と静岡県清水市であった. しかし, 清水市の場所は,「あまりにも富士山の存在が大きすぎ,夢の世界にはそぐわない」ということで浦安市舞浜の埋め立て地に決定した.
当時は,まだ京葉線はなかったものの,東京都心に近い立地の良さも大きな加点だった. 当初のオリエンタルランドの主要株主は,京成電鉄,三井不動産,朝日土地興業(船橋ヘルスセンター)であったが,その初代社長となったのが川崎千春となる.
ディズニーテーマパーク事業の初めての海外展開が,成功するかどうかは未知数だったことなどから,ディズニー側がパークの設計をし,土地とすべての施設の費用をオリエンタルランドが負担する方式となる. 51ha にもなる広大な敷地に,米国ディズニーランドとほぼそっくりに造られた東京ディズニーランド(TDL)の最終的な総事業費は,約1800億円もの巨額な投資となった.
そして東京ディズニーランド(TDL)は,1983年(昭和58年)3月18日から地元浦安市などにプレビュー(試験公開)が開始され,4月15日にグランドオープンした. それから,32年が過ぎた. さらなる成長に向けて,新たな展開をする...続きを読む
その後,2001年(平成13年)9月4日(火)には,東京ディズニーシー(TDS)がオープンし,2013年4月15日で開園30周年を迎えている. その,東京ディズニーランドや東京ディズニーシーなどの巨大遊園地を運営しているのが,オリエンタルランド(OLC)だ.
その東京ディズニーランド(TDL)が作られることになったきっかけが,千葉県習志野市谷津3丁目にあった京成谷津遊園(現,谷津バラ園)だった.
当時の京成谷津遊園は,レジャースポットの先駆けとして,東京湾に面して造られた施設で,日本初の360度宙返りするローラーコースター(1977年導入)や海上ジェットコースター,観覧車など,大型のアトラクション施設が数多くあった.
京成谷津遊園(谷津園)の場所は,もともとは塩田地(伊藤塩田)であったが,度重なる台風の高潮により大きな被害を受けた. 遠浅だった谷津干潟を利用した潮干狩り場や海水浴場,釣堀などの娯楽施設に転用された.
谷津遊園が開園したのは,1925年(大正14年)で,当時は私鉄各社が乗客数を増やす目的で,鉄道浴線に遊園地を開設するのがブームだった.
当時の京成電気軌道(京成電鉄)も,京成遊園地(株)を設立し,この地を購入して遊園地の営業を開始する.
戦時中は,谷津遊園から谷津園に変更されたが,営業ができるような状態ではなかった. 終戦後(敗戦後)の1951年(昭和26年)には,当時としては珍しい淡水マンモスプールが新設される.
また,1958年に誕生した園芸施設も人気で,春の5月ごろにはバラなどのフラワーカーニバル,秋の10月ごろにはNHK大河ドラマをテーマにした菊人形展などと,大きなイベントが開催されていた. 関東一円からの日帰りレジャー施設として人気があった.
1958年,京成谷津遊園のバラ園で販売するバラの買い付けのため,京成遊園地(株)の社長だった川崎千春(京成電鉄社長)は米国に出かけた. そのとき,開園したばかりのディズニーランドにも出向く. そこには,谷津遊園とは比べようもない規模の,夢のようなディズニーの世界が展開されていた. ここで,川﨑は「夢のようなディズニーの世界を日本で展開したい」と決意する.
当初の日本のディズニーランド建設候補地は,千葉県浦安市舞浜の遠浅地と我孫子市の手賀沼に面した若松地区,長野県大鹿村,静岡県清水市と御殿場市,神奈川県横浜市と川崎市,茨城県ひたちなか市などが候補としてあがった.
最後まで候補に残ったのは千葉県浦安市と静岡県清水市であった. しかし, 清水市の場所は,「あまりにも富士山の存在が大きすぎ,夢の世界にはそぐわない」ということで浦安市舞浜の埋め立て地に決定した.
当時は,まだ京葉線はなかったものの,東京都心に近い立地の良さも大きな加点だった. 当初のオリエンタルランドの主要株主は,京成電鉄,三井不動産,朝日土地興業(船橋ヘルスセンター)であったが,その初代社長となったのが川崎千春となる.
ディズニーテーマパーク事業の初めての海外展開が,成功するかどうかは未知数だったことなどから,ディズニー側がパークの設計をし,土地とすべての施設の費用をオリエンタルランドが負担する方式となる. 51ha にもなる広大な敷地に,米国ディズニーランドとほぼそっくりに造られた東京ディズニーランド(TDL)の最終的な総事業費は,約1800億円もの巨額な投資となった.
そして東京ディズニーランド(TDL)は,1983年(昭和58年)3月18日から地元浦安市などにプレビュー(試験公開)が開始され,4月15日にグランドオープンした. それから,32年が過ぎた. さらなる成長に向けて,新たな展開をする...続きを読む