結核(労咳)は,細菌の結核菌が原因となって起こる病気だ. 肺結核は空気感染し,100個レベルの菌数で発症する感染力の高い細菌である.
最初は炎症から始まり,肺に感染することが多いが,人体のいろいろな臓器でも病気を起こす. 炎症が進むと,やがて組織が死んで化膿した状態となる. 肺のレントゲンなどに写る影がこの状態で,かなり長く続く.
▼1868年ごろの国鉄稲毛駅周辺の地図(左). ▼1896年ごろの国鉄稲毛駅周辺の地図(右).
病巣は空洞となり,肺からの栄養で結核菌はますます増殖する. 結核菌は肺全体,全身に広がり,呼吸困難や他の臓器機能がおかされ生命の危機を招く. 明治期には,国民病や亡国病とまで言われるほど猛威をふるい,死因順位の首位を占めていた. 当時はほとんど打つ手のない不治の病で,患者を隔離することくらいしかできなく,命を落とす人も少なくなかった.
東京湾岸沿いの稲毛浅間神社近くの松林に,結核療養所の海気館(稲毛海気療養所)があった. その療養所を開設したのが,佐倉町(現,佐倉市)出身の医学士の浜野昇(はまののぼる)だ. 浜野は,佐倉順天堂(1843年)の師である佐藤尚中(さとうたかなか)と共に上京し,1870年(明治3年)に大学東校(現,東京大学医学部)に入学してドイツ医学を学ぶ.
▼1917年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(左). ▼1927年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(右).
1883年(明治16年)には,佐倉に私立の済生堂浜野病院(現,佐倉市民体育館脇)をつくった. そして,1889年(明治22年)稲毛海岸にも海気館(稲毛海気療養所)をつくった.
▼1957年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅(左). ▼1957年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅(右).
当時,海水浴は治療法のひとつとして提唱され,海気館は海水を利用した施設であった. 施設には,海水温浴場,海水冷浴場,海水灌漑場,遊戯場,運動場などがあり,医師1名が常駐していた.
▼1945年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅(左). ▼1961年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅(右).
その後,1899年(明治32年)に総武鉄道の幕張駅-(稲毛駅)-千葉駅間が開業し,1921年(大正10年)に京成千葉線が開通して交通の利便がよくなったことから,東京方面の保養地として人気を集め,富裕層の別荘や別邸が数多く建てられた.
▼1965年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(左). ▼1975年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(右).
1928年に英国のアレクサンダーフレミングによって,世界初の抗生物質ペニシリンが発見され,破傷風菌,赤痢菌,結核菌に効く魔法の薬となった. だが,結核は完全に治せなかった. 結核は,新しい抗生物質ストレプトマイシンの発見(1943年)まで待たなければならなかった. そして戦後,ストレプトマイシンによる治療によって結核は激減する.
▼1988年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅(左). ▼1998年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅(右).
海気館は旅館加納屋が買い取り,診療所から旅館となり,春には潮干狩り,夏には海水浴,秋から冬にかけて釣りなどで楽しむ関東有数の保養地(避暑地)の宿泊場や宴会場などに用いられるようになる.
海気館には,島崎藤村(しまざきとうそん),徳田秋声(とくだしゅうせい),森鴎外(もりおうがい),上司小剣(かみつかさしょうけん)などの文化人たちも滞在して,多くの文学作品を執筆をしている.
国鉄稲毛駅から徒歩14分,京成稲毛駅から徒歩5分ほどで稲毛の海岸線にたどり着くが,その遊路として稲毛せんげん通りが発展する. せんげんとは,新月の潮の引いた干潟の魚を手づかみで獲るよとぼし漁から命名されている.
だが,東京湾の水質の悪化で海水浴や潮干狩りができなくなり,遠浅の干潟は埋め立てられていき,保養地としての価値はなくなっていく. さらに,JR稲毛駅東口(山側)に大型ショッピングモールの稲毛サティ(現,イオン稲毛)や稲毛ペリエができたことで,人の流れは大きく変わり,稲毛せんげん通り商店街は衰退していく.
稲毛せんげん通り商店街は,稲毛浅間神社を中心に商店街の復活の活動をしている. 稲毛浅間神社には,千葉県無形民俗文化財の「浅間神社の神楽(かぐら)」が伝えられていて,1200年以上の歴史がある.
1年を通して季節に合わせて行事がおこなわれ,夏の7月14日(前夜祭)から15日(大祭)にかけて行われる例大祭は,稲毛のせんげんまつりとして親しまれている. JR稲毛駅西口(海側)の三差路から国道357号入り口までの約700m を通行止めとし,国道向かいの稲岸公園周辺の歩道も会場となる. 15日の本祭には約500店の露店が出店する.
そして秋から冬にかけては,稲毛あかり祭-夜灯(よとぼし)を開催している. 2006年(平成18年)12月から開催していて,今年で10回目となる...続きを読む
最初は炎症から始まり,肺に感染することが多いが,人体のいろいろな臓器でも病気を起こす. 炎症が進むと,やがて組織が死んで化膿した状態となる. 肺のレントゲンなどに写る影がこの状態で,かなり長く続く.
▼1868年ごろの国鉄稲毛駅周辺の地図(左). ▼1896年ごろの国鉄稲毛駅周辺の地図(右).
病巣は空洞となり,肺からの栄養で結核菌はますます増殖する. 結核菌は肺全体,全身に広がり,呼吸困難や他の臓器機能がおかされ生命の危機を招く. 明治期には,国民病や亡国病とまで言われるほど猛威をふるい,死因順位の首位を占めていた. 当時はほとんど打つ手のない不治の病で,患者を隔離することくらいしかできなく,命を落とす人も少なくなかった.
東京湾岸沿いの稲毛浅間神社近くの松林に,結核療養所の海気館(稲毛海気療養所)があった. その療養所を開設したのが,佐倉町(現,佐倉市)出身の医学士の浜野昇(はまののぼる)だ. 浜野は,佐倉順天堂(1843年)の師である佐藤尚中(さとうたかなか)と共に上京し,1870年(明治3年)に大学東校(現,東京大学医学部)に入学してドイツ医学を学ぶ.
▼1917年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(左). ▼1927年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(右).
1883年(明治16年)には,佐倉に私立の済生堂浜野病院(現,佐倉市民体育館脇)をつくった. そして,1889年(明治22年)稲毛海岸にも海気館(稲毛海気療養所)をつくった.
▼1957年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅(左). ▼1957年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅(右).
当時,海水浴は治療法のひとつとして提唱され,海気館は海水を利用した施設であった. 施設には,海水温浴場,海水冷浴場,海水灌漑場,遊戯場,運動場などがあり,医師1名が常駐していた.
▼1945年ごろの国鉄稲毛駅と京成稲毛駅(左). ▼1961年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅(右).
その後,1899年(明治32年)に総武鉄道の幕張駅-(稲毛駅)-千葉駅間が開業し,1921年(大正10年)に京成千葉線が開通して交通の利便がよくなったことから,東京方面の保養地として人気を集め,富裕層の別荘や別邸が数多く建てられた.
▼1965年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(左). ▼1975年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅周辺の地図(右).
1928年に英国のアレクサンダーフレミングによって,世界初の抗生物質ペニシリンが発見され,破傷風菌,赤痢菌,結核菌に効く魔法の薬となった. だが,結核は完全に治せなかった. 結核は,新しい抗生物質ストレプトマイシンの発見(1943年)まで待たなければならなかった. そして戦後,ストレプトマイシンによる治療によって結核は激減する.
▼1988年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅(左). ▼1998年ごろのJR稲毛駅と京成稲毛駅(右).
海気館は旅館加納屋が買い取り,診療所から旅館となり,春には潮干狩り,夏には海水浴,秋から冬にかけて釣りなどで楽しむ関東有数の保養地(避暑地)の宿泊場や宴会場などに用いられるようになる.
海気館には,島崎藤村(しまざきとうそん),徳田秋声(とくだしゅうせい),森鴎外(もりおうがい),上司小剣(かみつかさしょうけん)などの文化人たちも滞在して,多くの文学作品を執筆をしている.
国鉄稲毛駅から徒歩14分,京成稲毛駅から徒歩5分ほどで稲毛の海岸線にたどり着くが,その遊路として稲毛せんげん通りが発展する. せんげんとは,新月の潮の引いた干潟の魚を手づかみで獲るよとぼし漁から命名されている.
だが,東京湾の水質の悪化で海水浴や潮干狩りができなくなり,遠浅の干潟は埋め立てられていき,保養地としての価値はなくなっていく. さらに,JR稲毛駅東口(山側)に大型ショッピングモールの稲毛サティ(現,イオン稲毛)や稲毛ペリエができたことで,人の流れは大きく変わり,稲毛せんげん通り商店街は衰退していく.
稲毛せんげん通り商店街は,稲毛浅間神社を中心に商店街の復活の活動をしている. 稲毛浅間神社には,千葉県無形民俗文化財の「浅間神社の神楽(かぐら)」が伝えられていて,1200年以上の歴史がある.
1年を通して季節に合わせて行事がおこなわれ,夏の7月14日(前夜祭)から15日(大祭)にかけて行われる例大祭は,稲毛のせんげんまつりとして親しまれている. JR稲毛駅西口(海側)の三差路から国道357号入り口までの約700m を通行止めとし,国道向かいの稲岸公園周辺の歩道も会場となる. 15日の本祭には約500店の露店が出店する.
そして秋から冬にかけては,稲毛あかり祭-夜灯(よとぼし)を開催している. 2006年(平成18年)12月から開催していて,今年で10回目となる...続きを読む