1942年(昭和17年)6月5日,日本軍はミッドウェー海戦で大敗北した. 太平洋戦争(大東亜戦争)における主導権を失う転換期となり,後退を余儀なくされた. 以降,米国軍は日本が占領する太平洋上の島じまをつぎつぎと制圧し,日本本土攻略をめざし北上していく.
米国軍はアイスバーグ上陸作戦計画に基づき,1945年3月26日早朝,慶良間諸島(けらましょとう)の上陸作戦を展開. そして,4月1日夜明け前の 5:30, 猛烈な艦砲射撃が開始. 8:30 に第一部隊が上陸. その後つぎつぎと後続部隊が上陸し,日本軍の組織的抵抗がないまま,その日のうちに6万人以上の兵が上陸した. 日本軍が,本土侵攻を遅らせるため,水際撃滅戦から持久戦に変更したからだった.
この持久戦によって,日本軍は住民とともに沖縄南部に追い詰められ,「国家のために命を捧げよ」,「生きて虜囚のはずかしめを受けず,死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった軍国主義教育により,沖縄住民の多くが集団自決の犠牲となる. 1945年6月23日,実質上沖縄戦は終結する.
この沖縄戦では,24万人が死亡し,民間人の3分の1を失った. 戦後,生活基盤のない住民は,米国軍からの配給に頼っていた. 教育環境も,大きく遅れていた. 米国軍占領下の1947年(昭和22年)に,6-3年制の学制が実施され,米国軍政府教育部の指導により,1950年(昭和25年)に琉球大学が設立される.
▼1966年(昭和41年)ごろの沖縄学生会館(左). ▼1968年(昭和43年)11月の沖縄学生会館の沖学祭(右).
1972年(昭和47年)の沖縄復帰を前に,若い人材を戦略的に日本本土の大学などで学ばせていた. 首都圏の大学などに通う沖縄県出身男子学生らの経済的負担の軽減を図る目的から,千葉県習志野市谷津に男子寮の沖縄学生会館(沖縄会館)が建設された.
▼習志野市谷津5丁目の沖縄学生会館(沖縄会館)は,2009年3月末で46年の歴史を閉じた.
沖縄学生会館の土地 3153.96m2(約955坪)は,当時の琉球政府が購入し,琉球育英会(現在の沖縄県国際交流人材育成財団)が4階建て本館(963.64m2)を1962年9月に建設した. その後,2階建ての新館(475.04m2)を1965年に増築する. 定員は,47人となる.
建設された当時は,まだこの辺は住宅もまばらで,モダンな鉄筋構造の白い外壁から,白亜の館とも呼ばれていた. 沖縄学生会館には,「習志野の,ああ白亜の館」と歌う寮歌(作詞:宜保喜久/作曲:池村明)があった. 沖縄復帰後は,資産は沖縄県に移管された.
沖縄学生会館の1F は食堂と談話室,図書室,2F は畳間の4人部屋で主に1年生が入る. 3Fと4F ベッドの2人部屋となっていた.
だが,施設の耐震検査の結果,今後利用していくことができなくなり,2008年度からは寮生募集を停止していた. 2009年3月末時点で,19人の寮生がいたが,別の寮や大学寮へ引っ越しをして,46年の歴史の幕を閉じた. 延500名余の寮生が巣立っていった.
建て替えの要望もあったが,沖縄県の財政難の問題と今後の学生寮のあり方から,売却とすることを決定した. 大学よりも専修学校の学生の利用が多くなってきたこともあるようだ.
では, 沖縄学生会館跡地はどうなったのだろうか...続きを読む
米国軍はアイスバーグ上陸作戦計画に基づき,1945年3月26日早朝,慶良間諸島(けらましょとう)の上陸作戦を展開. そして,4月1日夜明け前の 5:30, 猛烈な艦砲射撃が開始. 8:30 に第一部隊が上陸. その後つぎつぎと後続部隊が上陸し,日本軍の組織的抵抗がないまま,その日のうちに6万人以上の兵が上陸した. 日本軍が,本土侵攻を遅らせるため,水際撃滅戦から持久戦に変更したからだった.
この持久戦によって,日本軍は住民とともに沖縄南部に追い詰められ,「国家のために命を捧げよ」,「生きて虜囚のはずかしめを受けず,死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった軍国主義教育により,沖縄住民の多くが集団自決の犠牲となる. 1945年6月23日,実質上沖縄戦は終結する.
この沖縄戦では,24万人が死亡し,民間人の3分の1を失った. 戦後,生活基盤のない住民は,米国軍からの配給に頼っていた. 教育環境も,大きく遅れていた. 米国軍占領下の1947年(昭和22年)に,6-3年制の学制が実施され,米国軍政府教育部の指導により,1950年(昭和25年)に琉球大学が設立される.
▼1966年(昭和41年)ごろの沖縄学生会館(左). ▼1968年(昭和43年)11月の沖縄学生会館の沖学祭(右).
1972年(昭和47年)の沖縄復帰を前に,若い人材を戦略的に日本本土の大学などで学ばせていた. 首都圏の大学などに通う沖縄県出身男子学生らの経済的負担の軽減を図る目的から,千葉県習志野市谷津に男子寮の沖縄学生会館(沖縄会館)が建設された.
▼習志野市谷津5丁目の沖縄学生会館(沖縄会館)は,2009年3月末で46年の歴史を閉じた.
沖縄学生会館の土地 3153.96m2(約955坪)は,当時の琉球政府が購入し,琉球育英会(現在の沖縄県国際交流人材育成財団)が4階建て本館(963.64m2)を1962年9月に建設した. その後,2階建ての新館(475.04m2)を1965年に増築する. 定員は,47人となる.
建設された当時は,まだこの辺は住宅もまばらで,モダンな鉄筋構造の白い外壁から,白亜の館とも呼ばれていた. 沖縄学生会館には,「習志野の,ああ白亜の館」と歌う寮歌(作詞:宜保喜久/作曲:池村明)があった. 沖縄復帰後は,資産は沖縄県に移管された.
沖縄学生会館の1F は食堂と談話室,図書室,2F は畳間の4人部屋で主に1年生が入る. 3Fと4F ベッドの2人部屋となっていた.
だが,施設の耐震検査の結果,今後利用していくことができなくなり,2008年度からは寮生募集を停止していた. 2009年3月末時点で,19人の寮生がいたが,別の寮や大学寮へ引っ越しをして,46年の歴史の幕を閉じた. 延500名余の寮生が巣立っていった.
建て替えの要望もあったが,沖縄県の財政難の問題と今後の学生寮のあり方から,売却とすることを決定した. 大学よりも専修学校の学生の利用が多くなってきたこともあるようだ.
では, 沖縄学生会館跡地はどうなったのだろうか...続きを読む