「将来の夢」,「ぼくは大人になったら,世界一のサッカー選手になりたい,と言うよりなる.世界一になるには,世界一練習しないとダメだ.だから,今,ぼくはガンバッている.今はヘタだけれどガンバッて必ず世界一になる.」
「そして,世界一になったら,大金持ちになって親孝行する.Wカップで有名になって,ぼくは外国から呼ばれてヨーロッパのセリエAに入団します. そしてレギュラーになって(エースナンバー)10番で活躍します.一年間の給料は40億円はほしいです.」
▼小学生のころの本田圭佑選手.
これは,世界で活躍するプロサッカー選手本田圭佑(ほんだけいすけ)が,12歳の時の卒業文集で書いたものだ. 目標が具体的で,とても小学生の「夢」とは思えない. この時,この40億円は何に使うつもりだったのだろうか.
圭佑は,子どものころから負けず嫌いで,自分に厳しく回りに流されない性格だった. このような性格は今でも変わらず,特に海外の地元サーカーファンやマスコミから非難を受けることも多い.
▼中学生のころの本田圭佑選手.
石川県金沢市の(私)星稜高校時代,石川県立金沢西高校のマネージャの女性に一方的に一目ぼれし,その練習試合に圧勝した後そのまま相手ベンチで「ボクと付き合ってくれ」と告白,その場で「はいっ!」と返事をもらった行動派でもある. それが,現在の妻となる.
▼高校生のころの本田圭佑選手.
本田圭佑(1986年6月生まれ/AB型)には,3つ歳上の兄本田弘幸(1983年12月/A型)がいる. 兄もプロのサッカー選手だったがケガで引退,現在はHEROE(株)の代表取締役社長として日本選手や海外選手のスポーツエージェント(代理人)をおこなっている. 本田圭佑のスポーツエージェントもおこなっている.
2005年,星稜高校卒業後名古屋グランパスエイトに入団した時の年棒は 450万円. その後2008年に,オランダVVVフェンローへ移籍した時の年棒は 6500万円. 2010年,CSKAモスクワへの移籍で年棒 3憶円. さらに,2013年にセリエAのACミランに移籍して 7億7000万円(3年半の契約/移籍金額は24.6億円)となった.
わずか8年で,年棒は 170倍以上になったことになる. 圭佑の有言実行は,確実に進んでいる.
▼名古屋グランパスのころの本田圭佑選手.
本田家のルーツは熊本で,曾祖父母は本田茂三郎(マホロバ・ホンダカヌースクール代表)とタキとなる. その子供となる本田大三郎は,カヌー日本代表選手として東京オリンピックに出場した実績を持つ. 圭佑の従伯叔(本田圭佑の実父とは兄弟姉妹の間柄となる)だ. もともとはハンドボール選手だったが,東京オリンピック正式種目からハンドボールが外れてしまったため,カヌー選手に転向した異色の経歴を持つ.
▼オランダVVVフェンローのころの本田圭佑選手. ▼ロシアで激しい人種差別の攻撃にあったためか,このころから金髪(茶髪)になる.
その長男(圭佑からたどって再従兄弟姉妹)となる本田多聞(ほんだたもん)も,1984年(昭和59年)ロサンゼルスオリンピックのレスリングフリースタイル 100kg級で5位に入賞した人物だ. 国内243連勝,16年間アジアで無敗の記録を持ち,その技術力の高さから「アマレスの神様」とも言われた. 現在は,プロレスリングノア(Noah)を退団し,フリーランスプロレスラーとして活躍している.
圭佑の身長は 182cm (体重 74kg,体脂肪率 8%),平均的な日本人としては大柄な方だ. この恵まれた体格は,曾祖母タキの DNA 系統といわれる. 先祖は,ポリネシアン系なのかもしれない.
▼ロシアCSKAモスクワのころの本田圭佑選手.
祖伯叔父大三郎からは,「スポーツ選手は毎日ノートを取ればうまくなる,日記のように書けばいい」と言われ,今でもそれを実践しノートの総数は100冊を超え,本田ノートの生みの親と言われている.
▼イタリア・ミラノACミラの本田圭佑選手.
圭佑とサッカーとの出会いは幼稚園前後までさかのぼる. ちょうど,日本のプロサッカーJリーグ発足(1992年)の時期と重なる. 当時,幼稚園や小学校でもサッカーが盛んになったころだ.
しかし,小学2年(8歳)の1993年に両親は離婚,母は実家の広島に戻り,兄弘幸と圭佑は野菜の卸しの仕事をしていた父親本田司が親権を取った. 父親だけでは子育てはできないため,大阪府摂津市の父方の祖父母の本田満と晶子の2人に育てられた. すでにサッカーチームに入っていた兄を追うように,圭佑もサッカーに熱中になる.
そして,地元少年サッカーチームの摂津FC(せっつFC)に入団する. 当時を知る人は,「あの圭佑が,まさかここまでの選手になるとはねぇ」と,みな驚いている. 当時の圭佑はやせていて,技術的にも体力的にもズバ抜けて優れていたわけでもなかった. 幼かったときに母親から離別した圭佑は,その辛さをサッカーで乗り越えようとしたのかもしれない. 兄を見ながら,日本一負けず嫌いな男へと成長していく.
夏休みなどに,兄と圭佑は母がいる広島に遊びに行っていたが,母とその祖母に「一軒家を建ててやる」と約束していた. 圭佑にとって広島は,第二の故郷となる. そして,4年生のときに飛び級でトップチームに抜擢されるまでになる.
圭佑は,摂津市立第二中学校に入り中学生となった. 選手を育成していたガンバ大阪のアカデミーの門を叩き,ジュニアユースの一員となる. ガンバ大阪アカデミーの練習場(大阪府吹田市千里万博公園)は,家から徒歩で1時間20分ほどの距離の場所にあったが,毎日自転車で通った.
しかし,ユースレギュラーに昇格することはなく,挫折を味わう. 技術力はあったものの,体力面や持久力が不足し,すぐバテてしまうような状態だった. 結局,3学年になっても準レギュラーという状態だった. それでも,心は折れなかった.
大阪ではこれ以上の成長はできないと悟り,遠く離れた石川県金沢市の(私)星稜高校を進学先に選ぶ. 星稜といえば,松井秀喜氏(元NYヤンキース)を輩出した名門校だ. 圭佑は中3の10月に入学面接のために星稜に向かう.
星稜は高校野球としては有名だったが,石川県外からサッカー選手を受け入れるのは初めてだった. 星稜河崎護監督は,さっそく三重県立四日市中央工業高校との練習試合に起用し,圭佑の技術の高さに衝撃をうけ入部を即決する. そのとき,「俺をレギュラーで使ってくれますか」と監督に迫ったという. 田舎の石川にはいないタイプだった.
▼幕張新都心ゾゾパーク(2015年11月15日時点).
河崎監督は,上から押さえつけることなく,選手たちの自主性を尊重しながら長所を伸ばす指導方法だった. 「君のいいところを思い切り出していってほしい」と何度も言われた. この環境が,生意気な圭佑を大きく成長させる. 一人遠く石川まで来た圭佑は,「プロにならないと大阪には帰れない」という意気込みだった.
高3になると,圭佑はキャプテンに就任し,念願の10番をつけた. そして,国立競技場に向けて仲間たちをまとめていく. すでに,Jリーグ数クラブが触手を伸ばすまでになっていた. 高3最後の選手権では,仲間たちと共にベスト4(準決勝)までくい込んだ. 石川県初の快挙だった.
その歴に残る試合が,2005年1月8日第83回全国高校サッカー選手権大会ベスト4(準決勝)の,市立船橋(青のユニフォーム)対星稜(白のユニフォーム)の試合だ. 試合前の星稜へのインタビューでは,「自信はあります」,「僕だけじゃなくて、周りをプラスアルファ引き出せるようなプレーが僕にできればな」と発言していた.
▼幕張新都心ゾゾパーク(2015年12月20日時点).
前半3分で先行1点を星稜が取るものの,市立船橋が前半29分で1点,さらに後半29分で白山智一らが1点をとり,市立船橋の勝利と思われたが,ロスタイムのド壇場で星稜がゴールを入れて 2対2 の同点となる. 結局,PK戦で星稜は敗北. 星稜の千羽鶴は,市立船橋に譲ることになる.
泣き崩れる仲間たちをかかえながらも,キャプテン圭佑は泣くことはなかった. 国立競技場は通過点でしかなく,目標はまだ先にあったからだ. 翌日,卒業後の進路を名古屋グランパスに決めたことを報告し,U-20日本代表としてカタールへ向かった. その後星稜は,日本代表FW本田圭佑の母校としてサッカーファンなどにも知られるようになる.
その本田圭佑が所属する事務所が,2007年9月に設立したソルティーロ(株)(SOLTILO)だ. スポーツ選手のマネージメント業務だけでなく,サッカースクールやスポーツコンサルティングもおこなう. 代表取締役社長は,父の本田司となっている. 2015年9月時点の従業員数は 90名にまでなっている.
そのソルティーロが,千葉市美浜区の幕張新都心の旧文教地区に,サッカー施設を2015年12月にプレオープンする. グランドオープンは2016年3月になる. フルサイズのサッカーコート1面やフットサルコート6面などを備え,一般向にも貸し出す. この幕張のサッカー施設はかなり大きいが,本田圭佑の壮大な計画の一部にすぎない. その計画とはなんなのだろうか...続きを読む
「そして,世界一になったら,大金持ちになって親孝行する.Wカップで有名になって,ぼくは外国から呼ばれてヨーロッパのセリエAに入団します. そしてレギュラーになって(エースナンバー)10番で活躍します.一年間の給料は40億円はほしいです.」
▼小学生のころの本田圭佑選手.
これは,世界で活躍するプロサッカー選手本田圭佑(ほんだけいすけ)が,12歳の時の卒業文集で書いたものだ. 目標が具体的で,とても小学生の「夢」とは思えない. この時,この40億円は何に使うつもりだったのだろうか.
圭佑は,子どものころから負けず嫌いで,自分に厳しく回りに流されない性格だった. このような性格は今でも変わらず,特に海外の地元サーカーファンやマスコミから非難を受けることも多い.
▼中学生のころの本田圭佑選手.
石川県金沢市の(私)星稜高校時代,石川県立金沢西高校のマネージャの女性に一方的に一目ぼれし,その練習試合に圧勝した後そのまま相手ベンチで「ボクと付き合ってくれ」と告白,その場で「はいっ!」と返事をもらった行動派でもある. それが,現在の妻となる.
▼高校生のころの本田圭佑選手.
本田圭佑(1986年6月生まれ/AB型)には,3つ歳上の兄本田弘幸(1983年12月/A型)がいる. 兄もプロのサッカー選手だったがケガで引退,現在はHEROE(株)の代表取締役社長として日本選手や海外選手のスポーツエージェント(代理人)をおこなっている. 本田圭佑のスポーツエージェントもおこなっている.
2005年,星稜高校卒業後名古屋グランパスエイトに入団した時の年棒は 450万円. その後2008年に,オランダVVVフェンローへ移籍した時の年棒は 6500万円. 2010年,CSKAモスクワへの移籍で年棒 3憶円. さらに,2013年にセリエAのACミランに移籍して 7億7000万円(3年半の契約/移籍金額は24.6億円)となった.
わずか8年で,年棒は 170倍以上になったことになる. 圭佑の有言実行は,確実に進んでいる.
▼名古屋グランパスのころの本田圭佑選手.
本田家のルーツは熊本で,曾祖父母は本田茂三郎(マホロバ・ホンダカヌースクール代表)とタキとなる. その子供となる本田大三郎は,カヌー日本代表選手として東京オリンピックに出場した実績を持つ. 圭佑の従伯叔(本田圭佑の実父とは兄弟姉妹の間柄となる)だ. もともとはハンドボール選手だったが,東京オリンピック正式種目からハンドボールが外れてしまったため,カヌー選手に転向した異色の経歴を持つ.
▼オランダVVVフェンローのころの本田圭佑選手. ▼ロシアで激しい人種差別の攻撃にあったためか,このころから金髪(茶髪)になる.
その長男(圭佑からたどって再従兄弟姉妹)となる本田多聞(ほんだたもん)も,1984年(昭和59年)ロサンゼルスオリンピックのレスリングフリースタイル 100kg級で5位に入賞した人物だ. 国内243連勝,16年間アジアで無敗の記録を持ち,その技術力の高さから「アマレスの神様」とも言われた. 現在は,プロレスリングノア(Noah)を退団し,フリーランスプロレスラーとして活躍している.
圭佑の身長は 182cm (体重 74kg,体脂肪率 8%),平均的な日本人としては大柄な方だ. この恵まれた体格は,曾祖母タキの DNA 系統といわれる. 先祖は,ポリネシアン系なのかもしれない.
▼ロシアCSKAモスクワのころの本田圭佑選手.
祖伯叔父大三郎からは,「スポーツ選手は毎日ノートを取ればうまくなる,日記のように書けばいい」と言われ,今でもそれを実践しノートの総数は100冊を超え,本田ノートの生みの親と言われている.
▼イタリア・ミラノACミラの本田圭佑選手.
圭佑とサッカーとの出会いは幼稚園前後までさかのぼる. ちょうど,日本のプロサッカーJリーグ発足(1992年)の時期と重なる. 当時,幼稚園や小学校でもサッカーが盛んになったころだ.
しかし,小学2年(8歳)の1993年に両親は離婚,母は実家の広島に戻り,兄弘幸と圭佑は野菜の卸しの仕事をしていた父親本田司が親権を取った. 父親だけでは子育てはできないため,大阪府摂津市の父方の祖父母の本田満と晶子の2人に育てられた. すでにサッカーチームに入っていた兄を追うように,圭佑もサッカーに熱中になる.
そして,地元少年サッカーチームの摂津FC(せっつFC)に入団する. 当時を知る人は,「あの圭佑が,まさかここまでの選手になるとはねぇ」と,みな驚いている. 当時の圭佑はやせていて,技術的にも体力的にもズバ抜けて優れていたわけでもなかった. 幼かったときに母親から離別した圭佑は,その辛さをサッカーで乗り越えようとしたのかもしれない. 兄を見ながら,日本一負けず嫌いな男へと成長していく.
夏休みなどに,兄と圭佑は母がいる広島に遊びに行っていたが,母とその祖母に「一軒家を建ててやる」と約束していた. 圭佑にとって広島は,第二の故郷となる. そして,4年生のときに飛び級でトップチームに抜擢されるまでになる.
圭佑は,摂津市立第二中学校に入り中学生となった. 選手を育成していたガンバ大阪のアカデミーの門を叩き,ジュニアユースの一員となる. ガンバ大阪アカデミーの練習場(大阪府吹田市千里万博公園)は,家から徒歩で1時間20分ほどの距離の場所にあったが,毎日自転車で通った.
しかし,ユースレギュラーに昇格することはなく,挫折を味わう. 技術力はあったものの,体力面や持久力が不足し,すぐバテてしまうような状態だった. 結局,3学年になっても準レギュラーという状態だった. それでも,心は折れなかった.
大阪ではこれ以上の成長はできないと悟り,遠く離れた石川県金沢市の(私)星稜高校を進学先に選ぶ. 星稜といえば,松井秀喜氏(元NYヤンキース)を輩出した名門校だ. 圭佑は中3の10月に入学面接のために星稜に向かう.
星稜は高校野球としては有名だったが,石川県外からサッカー選手を受け入れるのは初めてだった. 星稜河崎護監督は,さっそく三重県立四日市中央工業高校との練習試合に起用し,圭佑の技術の高さに衝撃をうけ入部を即決する. そのとき,「俺をレギュラーで使ってくれますか」と監督に迫ったという. 田舎の石川にはいないタイプだった.
▼幕張新都心ゾゾパーク(2015年11月15日時点).
河崎監督は,上から押さえつけることなく,選手たちの自主性を尊重しながら長所を伸ばす指導方法だった. 「君のいいところを思い切り出していってほしい」と何度も言われた. この環境が,生意気な圭佑を大きく成長させる. 一人遠く石川まで来た圭佑は,「プロにならないと大阪には帰れない」という意気込みだった.
高3になると,圭佑はキャプテンに就任し,念願の10番をつけた. そして,国立競技場に向けて仲間たちをまとめていく. すでに,Jリーグ数クラブが触手を伸ばすまでになっていた. 高3最後の選手権では,仲間たちと共にベスト4(準決勝)までくい込んだ. 石川県初の快挙だった.
その歴に残る試合が,2005年1月8日第83回全国高校サッカー選手権大会ベスト4(準決勝)の,市立船橋(青のユニフォーム)対星稜(白のユニフォーム)の試合だ. 試合前の星稜へのインタビューでは,「自信はあります」,「僕だけじゃなくて、周りをプラスアルファ引き出せるようなプレーが僕にできればな」と発言していた.
▼幕張新都心ゾゾパーク(2015年12月20日時点).
前半3分で先行1点を星稜が取るものの,市立船橋が前半29分で1点,さらに後半29分で白山智一らが1点をとり,市立船橋の勝利と思われたが,ロスタイムのド壇場で星稜がゴールを入れて 2対2 の同点となる. 結局,PK戦で星稜は敗北. 星稜の千羽鶴は,市立船橋に譲ることになる.
泣き崩れる仲間たちをかかえながらも,キャプテン圭佑は泣くことはなかった. 国立競技場は通過点でしかなく,目標はまだ先にあったからだ. 翌日,卒業後の進路を名古屋グランパスに決めたことを報告し,U-20日本代表としてカタールへ向かった. その後星稜は,日本代表FW本田圭佑の母校としてサッカーファンなどにも知られるようになる.
その本田圭佑が所属する事務所が,2007年9月に設立したソルティーロ(株)(SOLTILO)だ. スポーツ選手のマネージメント業務だけでなく,サッカースクールやスポーツコンサルティングもおこなう. 代表取締役社長は,父の本田司となっている. 2015年9月時点の従業員数は 90名にまでなっている.
そのソルティーロが,千葉市美浜区の幕張新都心の旧文教地区に,サッカー施設を2015年12月にプレオープンする. グランドオープンは2016年3月になる. フルサイズのサッカーコート1面やフットサルコート6面などを備え,一般向にも貸し出す. この幕張のサッカー施設はかなり大きいが,本田圭佑の壮大な計画の一部にすぎない. その計画とはなんなのだろうか...続きを読む