東京ベイ船橋ビビット2017-2016-2015-2014

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木下街道

災害は防げるのか@市川の「八幡の藪知らず」の伝説の謎(43)

JR総武線本八幡駅から徒歩5分ほどの,国道14号(千葉街道)ぞいの市川市役所(千葉県市川市八幡1丁目)の斜め向かいに,うっそうと生い茂る竹林がある. 電車を使って市役所へ行く市民は,ほとんどこの脇を通っていく場所だ. 近くには,歴史ある八幡神社(葛飾八幡宮)がある.
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この竹林(千葉県市川市八幡2丁目)のタケ(竹)は孟宗竹(モウソウダケ/モウソウチク)で,日本のタケ種の中で最大,高さ25mに達するものもある. 竹林は,東西に約20m,南北に約10mで,わずか20m2ほどの広さとなっている. 竹林のまわりを囲むように,国道14号,駐輪場,事業用ビルなどが取り囲んでいて,ここだけ異質な雰囲気を感じさせる.
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ここは不知八幡森(しらずやわたのもり)ともいわれ,[八幡のヤブ知らず]という通称名がつけられ,かなり古くから「禁足地(入ってはならない場所)」とされてきた. 神隠しの森ともいわれる. その八幡のヤブ知らずの国道14号側には,小さな不知森神社(しらずもりじんじゃ)とその鳥居,伊勢屋宇兵衛(いせやうひょうえ)がたてた石碑がある.
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伊勢屋宇兵衛は,常陸国(ひたちのくに)信太郡(しだぐん,現在の茨城県土浦市霞ヶ浦南岸)出身. 葛東郡(現在の千葉県野田市,流山市,松戸市,市川市,浦安市)を中心に,醤油や酢の問屋業をおこなっていた商人で,大都市江戸への物流と販売をおこなっていた. 伊勢屋宇兵衛は,物流をになっていた街道を中心に自費で数かずの橋などを造ったが,その脇に必ず大きな石碑をたてている. 宣伝効果を狙ったものだったものと思われる.
1840年(天保10年)ごろに斎藤月岑によって刊行された江戸名所図会めぐり葛飾八幡宮. 葛飾八幡宮とともに,絵の右端には不知八幡森(しらずやわたのもり)が書かれている.
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江戸時代当時,八幡のヤブ知らずの近くには千葉街道(現,国道14号)と木下街道(きおろしかいどう,現千葉県道59号市川印西線)の交差点となっていた. その街道脇にあった八幡のヤブ知らずの数数の伝説を聞き,荷物の運搬中の天災や事故などのわざわいが起きないよう,ここに小さな不知森神社(1857年春)を立てたのだろう. ここにも,伊勢屋宇兵衛の大きな石碑がたっている.
1872年(明治5年)ごろの不知八幡森周辺(左). 1896年(明治29年)ごろ(右).
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江戸時代当時の八幡のヤブ知らずは竹林ではなく,うっそうと茂った雑木林だった. ここには,怪しい数かずの伝説が言い伝えられている. 例えば,「入ると二度と出てこられないとおそれられている」. 「竹ヤブを切り開こうとした者たちが次々と変死した」. 「入れば必ず祟(たたり)がある」. 「入ったら死ぬ」などだ. 娯楽が少なかった江戸時代から大正時代の庶民は,このような怪しい話が大好きで,徐じょに話が盛られていったのだろう. 今でいう,心霊スポットやミステリースポット,パワースポットというような場所であった.
1945年(昭和20年)ごろの不知八幡森周辺(左). 1974年(昭和49年)ごろ(右).
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八幡のヤブ知らずへ「立ち入ってはならない」理由があったはずだが,本当の理由は忘れさられ,なぜか怖い怪しい話だけが残った. ここの近くに,平安時代の寛平(かんぴょう,889年-898年)に建立されたという八幡神社(葛飾八幡宮)があるが,なんらかの関係があるのかもしれない. 幕末に,大変な騒ぎとなっていたあることが理由で,現代までこの地が手がつけられなかったのかもしれない...続きを読む

千葉県印西市の花火大会が中止されたワケ

乱世,戦国時代から天下太平(天下泰平)の平和な時代を作り上げたのが,江戸幕府の初代将軍徳川家康だ. ヨーロッパ諸国のほとんどが王や貴族階級による強力な絶対王政(絶対君主制)や封建制を敷き,富と権力を独占していたのに対して,江戸幕府の武士が握っていたのは権力だけだった. この日本独自の幕藩体制(封建制に近い)が,265年間も続く世界でも稀に見る政府となる.
江戸時代の日本橋魚河岸(左). 江戸時代の東海道品川宿(右).
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当時,全国に200あまりの大名(藩主)がいたが,武家を統制するために武家諸法度(1615年)を発し,新規築城の禁止(一国一城),藩同士の政略結婚の禁止,参勤交代の実施(3代将軍家光から)などをおこなって武家を厳しく統制したものの,かなりの権限は各藩などにゆだれられていた. 戦乱に明け暮れていた時代から平和な世の中になり,膨大な戦費を水利事業などの土木作業に振り向けられるようになり,農業生産性も向上していく.
江戸時代の永代橋の風景(左). 江戸時代の下絵国府ノ台(右).
20160829_江戸時代_江戸名所之内_永代橋の風景_佃島_隅田川_11220160829_江戸時代_下絵国府ノ台_利根川_江戸川_市川市_112
江戸幕府の財政を支えたのは,各藩から年貢として徴収されるだ. その輸送のために,水道路が整備されていく. 江戸時代初期におこなわれたのが,隅田川から中川を結ぶ運河(水路)の開削で,行徳の浜でできた塩を安全に江戸まで運ぶためのものであった. さらに,東北の各藩からからの米や薪(マキ)や炭の原料となる木材などを積んだ船は,石巻(宮城県)で積み替えして外洋船で太平洋を南下し,房総半島を大廻りして江戸へ入るルートとなる. だが,より安全な銚子から利根川を上流に上り,ふたたび江戸川を下るルートが多用されるようになる.
江戸時代の東北地方(仙台や三陸沖など)からの航路.
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利根川の浅瀬を通過するため,船体は小さく底が平たい高瀬舟に積み替えをおこなうことになる. 舟運の中継地となる船着場(河岸)が,潮来(いたこ,茨城県)や佐原(千葉県)であった. 現在の印西市立木下小学校近隣にあった木下河岸(きおろしがし)でも,東北産米や材木やたきぎなどの津出し(陸揚げ)をおこなっていた. また,銚子に水揚げされた魚貝類もここで津出しされていた.
市川の高台からみた江戸川(利根川)の高瀬舟(左). 江戸川の高瀬舟(左).
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江戸時代前期の利根川は,東京湾(江戸の内海)へ流れていた. 徳川家康が江戸に入り関東地域の開発を行うことから,利根川の流れを銚子の太平洋側に流れるように付け替えるという構想をたてる. これを,利根川東遷(とねがわとうせん)という. 測量の技術も乏しいかったことから何度も失敗し,さらに大災害にも見舞われ,プロジェクトがスタートしてから60年後の1654年(承応3年),利根川常陸川(ひたちがわ)を結ぶ赤堀川(あかぼりがわ)の開削をもって今日の利根川の原型が完成する.
利根川の高瀬舟.
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利根川を太平洋側に引き込むための赤堀川の川幅は,当初7間(12.6m)しかなかった. これからもわかるように,江戸を水害から守るにはほとんど役に立たず,東北(伊達藩)と江戸を結ぶ舟運の開発のためであった. 1809年(文化6年)に赤堀川を40間(約72m)に拡幅させ,利根川洪水を常陸川に流すことができるようになった.
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利根川東遷が完成する前から,銚子と江戸の間の物流はは,舟運陸運を組み合わせてつながっていた. 江戸中期になると,江戸の人口は100万人を超え,江戸前と言われた東京湾(江戸の内海)の魚貝類だけでは供給が間に合わなくなっていて,銚子沖で獲れた大型の魚が求められた. 銚子沖は,親潮と黒潮が接触するので魚が集まり,日本の四大漁場のひとつになっている.
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銚子に水揚げされた魚は,腐らないように血抜きや内臓が取り除かれ,塩や笹の葉に挟むなど防腐処置されて,その日の夕方には銚子を出発. 船は高瀬舟と呼ばれ,4人-6人が乗りこんだ. 利根川約80kmを遡上し,中流の現印西市の木下河岸(きおろしがし)で津出し(陸揚げ)をし,木下街道(きおろしかいどう,現千葉県道59号市川印西線)を使って,印西大森宿-白井宿-鎌ケ谷宿-船橋馬込沢-法典-市川鬼越-八幡宿を経由して旧江戸川ぞいの本行徳河岸までの約9里(約36km)の道のりを馬で陸送する. 1時間あたり 4km で計算すると,約9時間ほど陸送にかかっていたものと思われる.
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さらに,本行徳河岸からふたたび船に乗せ,旧江戸川から中川結ぶ新川運河-中川から隅田川を結ぶ小名木川運河を経由して,日本橋小網町の魚河岸(うおがし)の魚市場まで運んでいた. 積み出してから夜通しで運んで3日目の早朝の朝市で,魚は販売された. 現代の物流システムに似たしくみが,すでに江戸時代にできあがっていた. 木下街道(きおろしかいどう)は,生鮮食品を運んだ道ということから,別名「下総鮮魚街道」,「なま道」などと言われた.
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その印西市木下河岸(きおろしがし)近くの利根川河川敷で,印西市主催の花火大会が2016年8月27日夜に開催された. いや,開催される予定だったが,中止となった. 印西市市制施行20周年記念の花火大会のはずだった. 印西市は,この花火大会のために4000万円を事業費を投じ,8800発を打ち上げ,約6万人の動員を見込んでいた. だが,この花火大会の中止をめぐって,委託先に事業者ともめにもめている...続きを読む
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