千葉県内の市立高校(都市立高校という)は,都市部を中心に船橋市立船橋高校(1957年設立),習志野市立習志野高校(1957年設立),松戸市立松戸高校(1975年設立),柏市立柏高校(1978年設立),千葉市立稲毛高校(1978年設立),千葉市立千葉高校(1959年設立),銚子市立銚子高校(1948年設立)の6校ある.
▼千葉県松戸市紙敷2丁目の松戸市立松戸高校.
今や日本の高校への進学率は,1974年(昭和49年)に 90% を超え,近年では通信制を含めた進学率 は 98.0%(全日制のみで 94.1%) を超えている. アメリカが 90.3%, フランス 87.3%, ドイツ 85.8%, イギリス 78.0% と,主要先進国と比べても高い進学率となっている.
また,高校卒業者の大学(短大)への進学率は 54.8%,専修学校各種学校などへの進学率は 22.9% になっている. 千葉県の公立高校には,県立と市立(都市立高校)があるが,この違いはどうして生じたのだろうか.
▼松戸市立松戸高校の桜爛祭(おうらんさい).
かつての中等教育(中学+高校教育)は,男子が比較的早期に整備されてたが,女子の教育は遅れていた. 第一次世界大戦後,女子に対する教育要望が高まり,各地の市町村が独自で市立実践女学校などを設立する. 千葉県立国府台高校も市川市立国府台高校,千葉県立千葉東高校は千葉市立高等女学校だった.
▼市立松戸高校内の茶室(桂風閣).
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に学校教育法が公布され,現在の教育の学校体系の基本ができる. 国公立学校の小中学校(義務教育学校)は市町村,高校は都道府県,大学は国が設置者となることが基本となる.
学校施設や人件費など費用は設置者が負担するため,戦前に市町村が設置した高校(家政や商業,農業などの実業教育が多い)の多くは,財政上の問題から県へ移管される. その後,戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代が中学を卒業する1962年(昭和37年)ごろから高校への進学者数が急増する.
中学卒業者の高校進学者数は 50% を超え,高校定員数が追いつかず大量の中学浪人が生まれ社会問題化する. このころ,千葉県立高校が各地でつぎつぎに建設されるが,建設場所は千葉県の適正設置基準で決定されるため,学校が建設できる土地があっても市町村が望む場所に建設されるとは限らない.
このような時代に,東京都のベットタウンとなる都市部の船橋市や松戸市,習志野市,千葉市などの自治体は,小中学校の建設できびしい財政の中,独自で市立高校を新設する. 当時は,そのほとんどの市立高校は,市内在住の市民しか入学ができなかった.
しかし,時代は変わり,人口増加から人口減少に転じている. 千葉県は2002年(平成14年)に,千葉県立高校再編計画を定め,人口の増減に合わせた高校配置の適正化と新しい高校づくりに取り組んでいる.
第1期として,女子高校の共学化(松戸女子高校など)の他,幕張総合高校と若葉看護高校の統合,市川工業高校と葛南工業高校(定時制)の統合などをおこなった.第2期としては,柏西高校と柏北高校の統合して柏北高校(柏西高校舎を使用し柏北高校の事実上の廃校),流山中央高校と流山東高校の統合をおこない流山おおたかの森高校などとなった.
さらに,第3期として,船橋西高校と船橋旭高校の統合して船橋啓明高校(船橋西高校の校舎を使用し船橋旭高校の廃校),市川西高校と市川北高校の統合して市川昴高校(市川西高校の校舎を使用し市川北高校の廃校),松戸秋山高校と松戸矢切高校の統合して松戸向陽高等学校(松戸秋山高校の校舎を使用し松戸秋山高校の廃校)などとなった. では,近ミライの市立高校は,どうなるのだろうか...続きを読む
▼千葉県松戸市紙敷2丁目の松戸市立松戸高校.
今や日本の高校への進学率は,1974年(昭和49年)に 90% を超え,近年では通信制を含めた進学率 は 98.0%(全日制のみで 94.1%) を超えている. アメリカが 90.3%, フランス 87.3%, ドイツ 85.8%, イギリス 78.0% と,主要先進国と比べても高い進学率となっている.
また,高校卒業者の大学(短大)への進学率は 54.8%,専修学校各種学校などへの進学率は 22.9% になっている. 千葉県の公立高校には,県立と市立(都市立高校)があるが,この違いはどうして生じたのだろうか.
▼松戸市立松戸高校の桜爛祭(おうらんさい).
かつての中等教育(中学+高校教育)は,男子が比較的早期に整備されてたが,女子の教育は遅れていた. 第一次世界大戦後,女子に対する教育要望が高まり,各地の市町村が独自で市立実践女学校などを設立する. 千葉県立国府台高校も市川市立国府台高校,千葉県立千葉東高校は千葉市立高等女学校だった.
▼市立松戸高校内の茶室(桂風閣).
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に学校教育法が公布され,現在の教育の学校体系の基本ができる. 国公立学校の小中学校(義務教育学校)は市町村,高校は都道府県,大学は国が設置者となることが基本となる.
学校施設や人件費など費用は設置者が負担するため,戦前に市町村が設置した高校(家政や商業,農業などの実業教育が多い)の多くは,財政上の問題から県へ移管される. その後,戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代が中学を卒業する1962年(昭和37年)ごろから高校への進学者数が急増する.
中学卒業者の高校進学者数は 50% を超え,高校定員数が追いつかず大量の中学浪人が生まれ社会問題化する. このころ,千葉県立高校が各地でつぎつぎに建設されるが,建設場所は千葉県の適正設置基準で決定されるため,学校が建設できる土地があっても市町村が望む場所に建設されるとは限らない.
このような時代に,東京都のベットタウンとなる都市部の船橋市や松戸市,習志野市,千葉市などの自治体は,小中学校の建設できびしい財政の中,独自で市立高校を新設する. 当時は,そのほとんどの市立高校は,市内在住の市民しか入学ができなかった.
しかし,時代は変わり,人口増加から人口減少に転じている. 千葉県は2002年(平成14年)に,千葉県立高校再編計画を定め,人口の増減に合わせた高校配置の適正化と新しい高校づくりに取り組んでいる.
第1期として,女子高校の共学化(松戸女子高校など)の他,幕張総合高校と若葉看護高校の統合,市川工業高校と葛南工業高校(定時制)の統合などをおこなった.第2期としては,柏西高校と柏北高校の統合して柏北高校(柏西高校舎を使用し柏北高校の事実上の廃校),流山中央高校と流山東高校の統合をおこない流山おおたかの森高校などとなった.
さらに,第3期として,船橋西高校と船橋旭高校の統合して船橋啓明高校(船橋西高校の校舎を使用し船橋旭高校の廃校),市川西高校と市川北高校の統合して市川昴高校(市川西高校の校舎を使用し市川北高校の廃校),松戸秋山高校と松戸矢切高校の統合して松戸向陽高等学校(松戸秋山高校の校舎を使用し松戸秋山高校の廃校)などとなった. では,近ミライの市立高校は,どうなるのだろうか...続きを読む