千葉県船橋市浜町1丁目に分譲マンションの船橋ファミリータウンがある. 1号棟から10号棟で構成される.
▼道路を中心に西側が3号棟と4号棟,西側が5号棟. ▼1階部分は貸店舗となり,浜町商店街となっている.
その構成は,
1号棟(12階建て/261戸/1979年3月築),
2号棟(12階建て/236戸/1979年5月築),
3号棟(4階建て/69戸/1979年10月築)+4号棟,
5号棟(2階建て/34戸/1979年11月築),
6号棟(5階建て/60戸/1980年2月築),
7号棟(5階建て/40戸/1980年2月築),
8号棟(5階建て/20戸/1980年2月築),
9号棟(5階建て/140戸/1980年2月築),
10号棟(8階建て/48戸/1981年3月築).
---となっている.
これらのマンションの建設と,ららぽーと船橋ショッピングセンター(現,ららぽーとTOKYO-BAY)と,その前身である総合健康ランドの船橋ヘルスセンターには深い関係がある.
▼1962年(昭和37年)当時の船橋ヘルスセンター.
船橋ヘルスセンターのあった場所は,もともとは個人が所有の塩田となっていた場所だった. 山梨県出身の実業家2代目丹沢善利(たんざわよしとし)は,砂糖などの南洋貿易で成功した資金を元手に,船橋市の塩田跡池地を取得しようと動いていた.
すぐ隣り(現,船橋市役所あたり)には、同じよう塩田跡地を開発した三田浜楽園があった. 当時の三田浜楽園には1800坪の海水第1プールと4万坪の海水第2プールがあった. 地下 300m から湧き出るラジウム温泉があり,温泉の他,釣りやビリヤード(玉突き),児童園などの遊戯場,野球場,ボート,網船などが完備した割烹旅館があった. 戦前には,文豪川端康成や太宰治なども滞在して,小説の舞台となった日本文学ゆかりの地でもある.
また,習志野側には湾岸部の塩田地を埋め立ててできた京成電鉄直営の谷津遊園があり,子ども向けの遊具や野球場,海水浴場,潮干狩りができる施設があり首都圏の観光地として人気があった. 花輪駅(現,船橋競馬場駅)から谷津支線が引かれ,行楽客を輸送していた.
船橋市浜町の場所は,木村栄吉が地主だったが,この土地を取得するためだけに船橋土地興業を設立して土地を取得する. 当時の船橋市は,漁業と農業を中心とした財政力のない市だった. 埋め立てをしたくても,資金がなくてできなかった. 船橋市は民間の資金力を借り,工業用途として埋め立て免許を申請をして造成(8417坪)をする.
1951年(昭和26年)5月,東京都江東区の猿江公園近くで,深さ600m の井戸から天然ガスが出たのをきかけに,船橋市も調査採掘を始め,1951年(昭和27年)に地下 1700m から水溶性天然ガスと 29度の温泉を掘り当てていた. 企業誘致がつまずいたために,用途を温泉施設用途に変更されたが,埋め立て申請を通しやすくするため最初から温泉施設用途ではなかったのではないかと思われる.
この時の埋め立て地の総面積は約36万m2(11万坪)にもなるが,船橋ヘルスセンター用地として利用したのは約30万m2(9万坪),残りは漁業補償として約3万3000m2(1万坪)を無償で提供し,約3万3000m2(1万坪/180m×180m相当)を原価で船橋漁協の正組合員(当時1021人) に分けられる約束だった(浜町1丁目あたりと思われる).
この時の実際の造成原価は坪2300円であったが,坪3200円で漁民に販売され,この差益(900万円程度か?)で船橋ヘルスセンターの建設資金に充てる.
土地とは別に,総額 1億2500万円(朝日土地興業が 5000万円,船橋市が 7500万円)の現金補償もあった. 無償の土地を現金化したい漁民も多かったため,かなりの土地が朝日土地興業(株)が買い戻しをしている(19.5坪×3200円=6万2400円程度). 買い戻どされた土地の面積は,現船橋ファミリータウンの土地面積程度になったものと思われる.
採掘した温泉と天然ガスを利用し「汐干狩に海水浴一日楽しく遊べる海の温泉娯楽場」として船橋ヘルスセンターは1955(昭和30)年11月3日にオープンした. 施設は年ねん拡張され,ピーク時には全国から年間450万人が訪れるようになる. 東洋一の施設とも言われた.
船橋ヘルスセンターの成功は,全国にヘルスセンターブームを巻き起こし,特に1966年に開業した常磐ハワイアンセンター(現,スパリゾートハワイアンズ/福島県いわき市常磐)も船橋ヘルスセンターをモデルに成功した.
だが,温泉と天然ガスを組み上げ過ぎて地盤沈下が深刻になり,海老川周辺はゼロメートル地帯となってしまった. そして,1971年(昭和46年)には地盤沈下防止のため温泉,天然ガスの採掘が禁止となってしまい,船橋ヘルスセンターの魅力が薄れて客離れとなり,1977年(昭和52年)5月5日をもって完全閉鎖となる. 船橋ヘルスセンターが掘った天然ガスの鉱業権はを千葉県が47年1月1日に買い取られていた.
約4年間の準備期間を経て,船橋ヘルスセンターの跡地にららぽーと船橋ショッピングセンター(現,ららぽーとTOKYO-BAY)が1981年(昭和56年)4月2日に開業する. ハワイの大型ショッピングセンターのアラモアナセンターをモデルにした. 朝日土地興業(株)は,三井不動産販売(株)に1970年4月に合併していた.
船橋ヘルスセンターの閉鎖と,ららぽーと船橋ショッピングセンター開業は,船橋ファミリータウンの建設と重なる...続きを読む
▼道路を中心に西側が3号棟と4号棟,西側が5号棟. ▼1階部分は貸店舗となり,浜町商店街となっている.
その構成は,
1号棟(12階建て/261戸/1979年3月築),
2号棟(12階建て/236戸/1979年5月築),
3号棟(4階建て/69戸/1979年10月築)+4号棟,
5号棟(2階建て/34戸/1979年11月築),
6号棟(5階建て/60戸/1980年2月築),
7号棟(5階建て/40戸/1980年2月築),
8号棟(5階建て/20戸/1980年2月築),
9号棟(5階建て/140戸/1980年2月築),
10号棟(8階建て/48戸/1981年3月築).
---となっている.
これらのマンションの建設と,ららぽーと船橋ショッピングセンター(現,ららぽーとTOKYO-BAY)と,その前身である総合健康ランドの船橋ヘルスセンターには深い関係がある.
▼1962年(昭和37年)当時の船橋ヘルスセンター.
船橋ヘルスセンターのあった場所は,もともとは個人が所有の塩田となっていた場所だった. 山梨県出身の実業家2代目丹沢善利(たんざわよしとし)は,砂糖などの南洋貿易で成功した資金を元手に,船橋市の塩田跡池地を取得しようと動いていた.
すぐ隣り(現,船橋市役所あたり)には、同じよう塩田跡地を開発した三田浜楽園があった. 当時の三田浜楽園には1800坪の海水第1プールと4万坪の海水第2プールがあった. 地下 300m から湧き出るラジウム温泉があり,温泉の他,釣りやビリヤード(玉突き),児童園などの遊戯場,野球場,ボート,網船などが完備した割烹旅館があった. 戦前には,文豪川端康成や太宰治なども滞在して,小説の舞台となった日本文学ゆかりの地でもある.
また,習志野側には湾岸部の塩田地を埋め立ててできた京成電鉄直営の谷津遊園があり,子ども向けの遊具や野球場,海水浴場,潮干狩りができる施設があり首都圏の観光地として人気があった. 花輪駅(現,船橋競馬場駅)から谷津支線が引かれ,行楽客を輸送していた.
船橋市浜町の場所は,木村栄吉が地主だったが,この土地を取得するためだけに船橋土地興業を設立して土地を取得する. 当時の船橋市は,漁業と農業を中心とした財政力のない市だった. 埋め立てをしたくても,資金がなくてできなかった. 船橋市は民間の資金力を借り,工業用途として埋め立て免許を申請をして造成(8417坪)をする.
1951年(昭和26年)5月,東京都江東区の猿江公園近くで,深さ600m の井戸から天然ガスが出たのをきかけに,船橋市も調査採掘を始め,1951年(昭和27年)に地下 1700m から水溶性天然ガスと 29度の温泉を掘り当てていた. 企業誘致がつまずいたために,用途を温泉施設用途に変更されたが,埋め立て申請を通しやすくするため最初から温泉施設用途ではなかったのではないかと思われる.
この時の埋め立て地の総面積は約36万m2(11万坪)にもなるが,船橋ヘルスセンター用地として利用したのは約30万m2(9万坪),残りは漁業補償として約3万3000m2(1万坪)を無償で提供し,約3万3000m2(1万坪/180m×180m相当)を原価で船橋漁協の正組合員(当時1021人) に分けられる約束だった(浜町1丁目あたりと思われる).
この時の実際の造成原価は坪2300円であったが,坪3200円で漁民に販売され,この差益(900万円程度か?)で船橋ヘルスセンターの建設資金に充てる.
土地とは別に,総額 1億2500万円(朝日土地興業が 5000万円,船橋市が 7500万円)の現金補償もあった. 無償の土地を現金化したい漁民も多かったため,かなりの土地が朝日土地興業(株)が買い戻しをしている(19.5坪×3200円=6万2400円程度). 買い戻どされた土地の面積は,現船橋ファミリータウンの土地面積程度になったものと思われる.
採掘した温泉と天然ガスを利用し「汐干狩に海水浴一日楽しく遊べる海の温泉娯楽場」として船橋ヘルスセンターは1955(昭和30)年11月3日にオープンした. 施設は年ねん拡張され,ピーク時には全国から年間450万人が訪れるようになる. 東洋一の施設とも言われた.
船橋ヘルスセンターの成功は,全国にヘルスセンターブームを巻き起こし,特に1966年に開業した常磐ハワイアンセンター(現,スパリゾートハワイアンズ/福島県いわき市常磐)も船橋ヘルスセンターをモデルに成功した.
だが,温泉と天然ガスを組み上げ過ぎて地盤沈下が深刻になり,海老川周辺はゼロメートル地帯となってしまった. そして,1971年(昭和46年)には地盤沈下防止のため温泉,天然ガスの採掘が禁止となってしまい,船橋ヘルスセンターの魅力が薄れて客離れとなり,1977年(昭和52年)5月5日をもって完全閉鎖となる. 船橋ヘルスセンターが掘った天然ガスの鉱業権はを千葉県が47年1月1日に買い取られていた.
約4年間の準備期間を経て,船橋ヘルスセンターの跡地にららぽーと船橋ショッピングセンター(現,ららぽーとTOKYO-BAY)が1981年(昭和56年)4月2日に開業する. ハワイの大型ショッピングセンターのアラモアナセンターをモデルにした. 朝日土地興業(株)は,三井不動産販売(株)に1970年4月に合併していた.
船橋ヘルスセンターの閉鎖と,ららぽーと船橋ショッピングセンター開業は,船橋ファミリータウンの建設と重なる...続きを読む