JR総武線本八幡駅から徒歩5分ほどの,国道14号(千葉街道)ぞいの市川市役所(千葉県市川市八幡1丁目)の斜め向かいに,うっそうと生い茂る竹林がある. 電車を使って市役所へ行く市民は,ほとんどこの脇を通っていく場所だ. 近くには,歴史ある八幡神社(葛飾八幡宮)がある.
この竹林(千葉県市川市八幡2丁目)のタケ(竹)は孟宗竹(モウソウダケ/モウソウチク)で,日本のタケ種の中で最大,高さ25mに達するものもある. 竹林は,東西に約20m,南北に約10mで,わずか20m2ほどの広さとなっている. 竹林のまわりを囲むように,国道14号,駐輪場,事業用ビルなどが取り囲んでいて,ここだけ異質な雰囲気を感じさせる.
ここは不知八幡森(しらずやわたのもり)ともいわれ,[八幡のヤブ知らず]という通称名がつけられ,かなり古くから「禁足地(入ってはならない場所)」とされてきた. 神隠しの森ともいわれる. その八幡のヤブ知らずの国道14号側には,小さな不知森神社(しらずもりじんじゃ)とその鳥居,伊勢屋宇兵衛(いせやうひょうえ)がたてた石碑がある.
伊勢屋宇兵衛は,常陸国(ひたちのくに)信太郡(しだぐん,現在の茨城県土浦市霞ヶ浦南岸)出身. 葛東郡(現在の千葉県野田市,流山市,松戸市,市川市,浦安市)を中心に,醤油や酢の問屋業をおこなっていた商人で,大都市江戸への物流と販売をおこなっていた. 伊勢屋宇兵衛は,物流をになっていた街道を中心に自費で数かずの橋などを造ったが,その脇に必ず大きな石碑をたてている. 宣伝効果を狙ったものだったものと思われる.
▼1840年(天保10年)ごろに斎藤月岑によって刊行された江戸名所図会めぐりの葛飾八幡宮. ▼葛飾八幡宮とともに,絵の右端には不知八幡森(しらずやわたのもり)が書かれている.
江戸時代当時,八幡のヤブ知らずの近くには千葉街道(現,国道14号)と木下街道(きおろしかいどう,現千葉県道59号市川印西線)の交差点となっていた. その街道脇にあった八幡のヤブ知らずの数数の伝説を聞き,荷物の運搬中の天災や事故などのわざわいが起きないよう,ここに小さな不知森神社(1857年春)を立てたのだろう. ここにも,伊勢屋宇兵衛の大きな石碑がたっている.
▼1872年(明治5年)ごろの不知八幡森周辺(左). ▼1896年(明治29年)ごろ(右).
江戸時代当時の八幡のヤブ知らずは竹林ではなく,うっそうと茂った雑木林だった. ここには,怪しい数かずの伝説が言い伝えられている. 例えば,「入ると二度と出てこられないとおそれられている」. 「竹ヤブを切り開こうとした者たちが次々と変死した」. 「入れば必ず祟(たたり)がある」. 「入ったら死ぬ」などだ. 娯楽が少なかった江戸時代から大正時代の庶民は,このような怪しい話が大好きで,徐じょに話が盛られていったのだろう. 今でいう,心霊スポットやミステリースポット,パワースポットというような場所であった.
▼1945年(昭和20年)ごろの不知八幡森周辺(左). ▼1974年(昭和49年)ごろ(右).
八幡のヤブ知らずへ「立ち入ってはならない」理由があったはずだが,本当の理由は忘れさられ,なぜか怖い怪しい話だけが残った. ここの近くに,平安時代の寛平(かんぴょう,889年-898年)に建立されたという八幡神社(葛飾八幡宮)があるが,なんらかの関係があるのかもしれない. 幕末に,大変な騒ぎとなっていたあることが理由で,現代までこの地が手がつけられなかったのかもしれない...続きを読む
この竹林(千葉県市川市八幡2丁目)のタケ(竹)は孟宗竹(モウソウダケ/モウソウチク)で,日本のタケ種の中で最大,高さ25mに達するものもある. 竹林は,東西に約20m,南北に約10mで,わずか20m2ほどの広さとなっている. 竹林のまわりを囲むように,国道14号,駐輪場,事業用ビルなどが取り囲んでいて,ここだけ異質な雰囲気を感じさせる.
ここは不知八幡森(しらずやわたのもり)ともいわれ,[八幡のヤブ知らず]という通称名がつけられ,かなり古くから「禁足地(入ってはならない場所)」とされてきた. 神隠しの森ともいわれる. その八幡のヤブ知らずの国道14号側には,小さな不知森神社(しらずもりじんじゃ)とその鳥居,伊勢屋宇兵衛(いせやうひょうえ)がたてた石碑がある.
伊勢屋宇兵衛は,常陸国(ひたちのくに)信太郡(しだぐん,現在の茨城県土浦市霞ヶ浦南岸)出身. 葛東郡(現在の千葉県野田市,流山市,松戸市,市川市,浦安市)を中心に,醤油や酢の問屋業をおこなっていた商人で,大都市江戸への物流と販売をおこなっていた. 伊勢屋宇兵衛は,物流をになっていた街道を中心に自費で数かずの橋などを造ったが,その脇に必ず大きな石碑をたてている. 宣伝効果を狙ったものだったものと思われる.
▼1840年(天保10年)ごろに斎藤月岑によって刊行された江戸名所図会めぐりの葛飾八幡宮. ▼葛飾八幡宮とともに,絵の右端には不知八幡森(しらずやわたのもり)が書かれている.
江戸時代当時,八幡のヤブ知らずの近くには千葉街道(現,国道14号)と木下街道(きおろしかいどう,現千葉県道59号市川印西線)の交差点となっていた. その街道脇にあった八幡のヤブ知らずの数数の伝説を聞き,荷物の運搬中の天災や事故などのわざわいが起きないよう,ここに小さな不知森神社(1857年春)を立てたのだろう. ここにも,伊勢屋宇兵衛の大きな石碑がたっている.
▼1872年(明治5年)ごろの不知八幡森周辺(左). ▼1896年(明治29年)ごろ(右).
江戸時代当時の八幡のヤブ知らずは竹林ではなく,うっそうと茂った雑木林だった. ここには,怪しい数かずの伝説が言い伝えられている. 例えば,「入ると二度と出てこられないとおそれられている」. 「竹ヤブを切り開こうとした者たちが次々と変死した」. 「入れば必ず祟(たたり)がある」. 「入ったら死ぬ」などだ. 娯楽が少なかった江戸時代から大正時代の庶民は,このような怪しい話が大好きで,徐じょに話が盛られていったのだろう. 今でいう,心霊スポットやミステリースポット,パワースポットというような場所であった.
▼1945年(昭和20年)ごろの不知八幡森周辺(左). ▼1974年(昭和49年)ごろ(右).
八幡のヤブ知らずへ「立ち入ってはならない」理由があったはずだが,本当の理由は忘れさられ,なぜか怖い怪しい話だけが残った. ここの近くに,平安時代の寛平(かんぴょう,889年-898年)に建立されたという八幡神社(葛飾八幡宮)があるが,なんらかの関係があるのかもしれない. 幕末に,大変な騒ぎとなっていたあることが理由で,現代までこの地が手がつけられなかったのかもしれない...続きを読む