京成本線国府台駅から南側に50m ほどの江戸川ぞいの場所に大きな関所があった. それが,小岩市川関所(市川御番所)だ. 全国に21カ所あった重要関所のひとつとなっていた.
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関所(番所)は,幕府がおかれた江戸を守るために検問(監視)をおこなっていた場所で,鉄砲持ち込みによる反乱(テロ)防止や,各藩の大名家族の女性などが逃げ出さないよう,厳しい取り締まりをおこなっていた. 一般庶民の女性になりすまして通過することも考えられたため,女性の旅自体も厳しく制限されていた. この検問の仕事を,「入り鉄砲に出女(でおんな)」と言われていた.
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江戸幕府は,各大名を統制するために,「武家諸法度」や「参勤交代制度」をおこなう. 武家諸法度」によって新たな城は造れなくなり,大名家同士での結婚も許可が必要だった. また,「参勤交代制度」によって大名(武家)の妻子を江戸藩邸に住ませ,幕府の人質としていた. 大名の家族の女性が,「だまって江戸から自国へ逃げ帰える」ことは幕府への反乱行為とみなされた.
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小岩市川関所(市川御番所)は,江戸川(太日川)をはさんで小岩側(伊予田村,現東京都)と市川側(現,千葉県)にあった. 小岩側は,佐倉道水戸佐倉道(岩槻道)との合流地点となっていて,市川側は佐倉道(成田街道)と利根川からの木下道(下総鮮魚街道)との交差路となり陸上交通の要所となっていた.
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当時の江戸川の水量は,いまほど多くなく川幅も広くなかっので,木造の橋を架けることもできたが,水上交通として帆船を通さないといけなかったことと,防衛上問題から橋は架けられていなかった.
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小岩と市川の間を「小岩市川の渡し」として渡し舟が行き来し,常時2-3艘の船を,20人前後の船頭や人夫で運行してていた. 関所付近は「御番所町」とよばれ,旅籠屋(はたごや)や掛茶屋(かけぢゃや),あめ屋,豆腐屋,ぬか屋などが立ち並んで活気ある街道筋となっていた.
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幕末の1862年(文久2年)には参勤交代が緩和されて1年ごとから3年に一度になり,大名の妻と子どもの帰国も自由となる(出女の廃止). 1863年(文久3年)には,関所手形が簡略化され実質上のフリーパス状態となる. 1868年(慶応4年)各藩の口留番所が廃止され,1869年(明治2年)には「関所廃止令」が出され,全ての関所は廃止される. そして,江戸幕府と武士の時代が終了,新しい明治政府による天皇親政体制へと転換する.
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1894年(明治27年)7月,総武鉄道の市川駅-佐倉駅間が開業,1894年12月には江戸川の鉄橋が完成(京成電鉄の江戸川橋は1905年完成)して本所駅(現在の錦糸町駅)までが開通すると,市川の繁華街は御番所町から市川駅前に移ってくる.
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時代はかわり,太平洋戦争(第二次世界大戦)の空襲や労働者不足から日本は荒廃し,工業や農業などの生産力は大幅に低下していた. 深刻な食糧難になっていた日本へ,米国から大量の小麦が無償で援助される. 小麦は,焼いてパンにすることが推奨され,学校給食にも導入される.
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そのようなことから,日本各地に製粉工場やパン工場ができる. 現在,世界第2位の山崎製パン(ヤマザキ)も,この時代に創業をした. 山崎製パン発祥の地は,市川市の市川御番所跡地となる(実際には数十メートルズレているという説もある).
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市川御番所跡地は市川郵便局が取得して,1876年(明治9年)から電信電話の業務をおこなっていた. その後市川郵便局は,1945(昭和20)年に現在の市川市平田に移転することになる.
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体育教師だった飯島藤十郎によって,山崎製パン所が1948年(昭和23年)3月9日に誕生する. 実は,飯島はすでにこれとは別の製パン所を立ち上げていて,二重に免許を取得できなかったことから,妹「裕代」の嫁ぎ先の姓であった「山崎」の名前を使って山崎製パン所を立ち上げたのだった. 妹「裕代」の夫「山崎要太郎」は,新宿中村屋で修行した時の仲間だった.
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当時の山崎製パン所は 40m2(12坪=21畳)ほどしかなく,石窯もひとつしかなかった. おそらく,市川郵便局の木造の建物をそのまま受け継いだものと思われる. 小麦の調達が難しい時代だったため,小麦の提供を受けパン焼きのみをおこなうパン委託加工所で,当時のパンは,コッペパン(紡錘形で底の平たいパン)だった.
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1952年(昭和27年),市川駅前に包装した食パンを売る直営の「市川売店」を開店させる. その後,長さ25cmもあるロシアパン(コッペパンを大きくし,表面に砂糖とマーガリンを塗った甘いパン)を販売する.
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このロシアパンの成功が,山崎製パンを大きくするきっかけとなる...続きを読む