京成津田沼駅を中心とした地域は,菊田川(実質上消滅)を中心に鷺沼村(さぎぬまむら),久久田村(くくだむら)から構成されていた.
▼1689年(元禄02年)ごろの鷺沼村(さぎぬまむら)と久久田村(くぐたむら)周辺の地図(左). ▼1961年(昭和36年)ごろの海岸線と海の袖ヶ浦(右).
1889年(明治22年)の町村制施行にともない,藤崎村,軍郷大久保新田村ともに5村が合併して津田沼村が誕生した. 当時,すでに大きな村となっていた,谷[津],久久[田],鷺[沼]から漢字一文字ずつを取って命名された. 津田沼村は,習志野市の前身となる.
鉄道が開通するまでは,船が主な交通手段だった. 波の高い東京湾(江戸湾)の運航を避け,日本橋小網町から,隅田川を横切り,小名木川(運河),新川(運河)を通って江戸川に入り,江戸川をさかのぼって行徳新河岸までの航路を使っていた.
行徳新河岸で陸へ上がり行徳街道で船橋へ向い,船橋大神宮前(旧五日村)に突きあたる. 右側へ曲がれば房総往環(千葉街道,現国道14号),左側が成田街道(佐倉道)へと分岐する.
房総往環は,東京湾(江戸湾)の海岸線(江戸湾東岸)を沿うように,木更津を経て房総半島(内房総)の館山まで通っていた. 1日目の行程の宿泊先は船橋とすることが多かったが,隣りの久久田村の浜宿や鷺沼村の上宿,下宿に泊まることもあった.
▼埋め立て中の袖ヶ浦と建設中の京葉道路(東日本高速道路管理の有料道路).
そして戦後,習志野市の臨海部は千葉県企業庁によって埋め立てられ,袖ケ浦団地や秋津団地,香澄団地など大型団地が建設され,首都東京のベットタウンとして発展することになる.
袖ケ浦団地は,日本住宅公団(現,都市再生機構/UR)によって,賃貸 2990戸(67棟),分譲 250戸(8棟)が開発された. 袖ケ浦団地への入居が始まったのは1967年(昭和42年)からとなる. 袖ケ浦団地は,京成津田沼駅からバスで5分,JR新習志野駅(1986年開業)までバスで6分と,都心への通勤にも便利な場所だ.
袖ケ浦団地は,7街区に分かれている. 各街区には4棟から8棟で構成される. 棟1フロアあたり6戸から8戸となり,1棟は5階建てで30戸から40戸が1棟の戸数となる. エレベータは設置されていない.
袖ヶ浦団地中央には袖ヶ浦ショッピングセンターがあり,スーパーマーケット,郵便局,花屋,八百屋,理容室,美容室,病院(内科),整骨院などがある. 特にスーパーマーケットは生活に欠かせない施設となっている.
▼袖ケ浦団地の給水塔.
その袖ヶ浦ショッピングセンターの核店舗となっているのが,スーパーマーケットの大丸ピーコックだ. 大丸ピーコックは,百貨店大丸のスーパーマーケット事業部門として1951年に誕生し,1960年にピーコック産業(株)として分社化した.
▼袖ケ浦団地の袖ヶ浦ショッピングセンター.
「ピーコック」とは「オスの孔雀(くじゃく)」だが,英語圏では「うぬぼれの強い伊達男」という意味で使うこともあり,主婦がよく使う小売店舗名としては違和感がある.
その後,親会社である大丸は,松坂屋ホールディングスと経営統合し,2007年9月3日に新たに共同持株会社「J.フロントリテイリング(株)」を設立し,(株)大丸ピーコック(株)もその傘下となる. (株)大丸ピーコック(株)は,松坂屋ストアと(株)横浜松坂屋ストア,野沢商事(株)を2008年に吸収合併する.
だが,グループの事業構造変革の一貫としてJ.フロントリテイリングからイオンに184億円で株式譲渡が2013年4月に行われ,イオングループが運営するスーパーマーケットブランドのひとつとなり,店舗ブランド名も「ピーコックストア」になる. 新生ピーコックストアは,イオンマーケット(株)が経営をしている.
今団地では,高度成長時代に活躍した世代がつぎつぎに会社を退職し,凄まじい勢いで高齢化が進んでいる. 習志野市の平均と比べて 50代以上の人口割合が多く,20代前半以下の人口の割合が低くなっているのだ. 団地の人口は,1965年(昭和40年)ごろ 9800人にもなっていたが,今は 6200人と3分の2にまで激減している. 習志野市の平均高齢化率は 22% だが,袖ケ浦の高齢化率は 30%を超える.
戸数は維持しているものの,戸数あたりの家族の数が減り,2人世帯が中心となっている.
子育てが終わり,老夫婦だけとなっているのだ. 購買力は下がり,スーパーマーケットの利用も最低限のものだけとなっている.
眺めがよいと選択した5階や4階だが,高齢者には階段の上り下りが苦痛となってきている. 袖ケ浦団地活性化事業のひとつとして,5階のみをシェアハウス型学生寮への転換する案なども検討されているが,子育て家族が増えない限り根本的な解決とはならない.
▼1961年当時の高根台団地.
千葉県船橋市の高根台団地も,1961年(昭和36年)に入居が始まった 2207戸(122棟)の大型団地だ. 袖ケ浦団地より6年古い. 高根台2丁目の高齢化率は37%にもなり,新京成線高根公団駅前のショッピングモールは閑散としシャッター街となってしまっていた.
▼1962年当時の高根台団地.
現状のままでの老朽化した棟のままでは,新たな年齢層の住民も見込めない. 1999年(平成11年)から,老朽化が進んだ棟の建て替えを進めている. 高齢化率も下がってきている.
▼袖ヶ浦団地で計画された,15階建てマンションの完成予想図(左). ▼マンション建設予定地(右).
袖ヶ浦団地においても,分譲化された250戸(8棟)の再構築計画が2008年に立案された. 計画では,8棟を完全に取り壊し15階建てマンション約280戸を建設する案だ. 敷地の4分の3程度が余るため,この土地の売却益をマンションの建設資金に充てることで,住民の負担金なしで実現できるとしていた.
▼完全閉店した大丸ピーコック袖ヶ浦店
袖ヶ浦団地住民の反対で進んでいない. さらに,2011年3月11日の東日本大震災で,袖ヶ浦地区は習志野市内でもっとも大きな被害を受け,計画は頓挫してしまった. だが,近年新たな計画が持ち上がっている. 32階建て超高層タワーマンションにする計画だ. 既存住民の自己負担は 700万にもなる.
そのような状況の中,大丸ピーコック袖ヶ浦店は2016年9月28日(水)をもって完全閉店した. では跡地はどうなったのだろうか...続きを読む
▼1689年(元禄02年)ごろの鷺沼村(さぎぬまむら)と久久田村(くぐたむら)周辺の地図(左). ▼1961年(昭和36年)ごろの海岸線と海の袖ヶ浦(右).
1889年(明治22年)の町村制施行にともない,藤崎村,軍郷大久保新田村ともに5村が合併して津田沼村が誕生した. 当時,すでに大きな村となっていた,谷[津],久久[田],鷺[沼]から漢字一文字ずつを取って命名された. 津田沼村は,習志野市の前身となる.
鉄道が開通するまでは,船が主な交通手段だった. 波の高い東京湾(江戸湾)の運航を避け,日本橋小網町から,隅田川を横切り,小名木川(運河),新川(運河)を通って江戸川に入り,江戸川をさかのぼって行徳新河岸までの航路を使っていた.
行徳新河岸で陸へ上がり行徳街道で船橋へ向い,船橋大神宮前(旧五日村)に突きあたる. 右側へ曲がれば房総往環(千葉街道,現国道14号),左側が成田街道(佐倉道)へと分岐する.
房総往環は,東京湾(江戸湾)の海岸線(江戸湾東岸)を沿うように,木更津を経て房総半島(内房総)の館山まで通っていた. 1日目の行程の宿泊先は船橋とすることが多かったが,隣りの久久田村の浜宿や鷺沼村の上宿,下宿に泊まることもあった.
▼埋め立て中の袖ヶ浦と建設中の京葉道路(東日本高速道路管理の有料道路).
そして戦後,習志野市の臨海部は千葉県企業庁によって埋め立てられ,袖ケ浦団地や秋津団地,香澄団地など大型団地が建設され,首都東京のベットタウンとして発展することになる.
袖ケ浦団地は,日本住宅公団(現,都市再生機構/UR)によって,賃貸 2990戸(67棟),分譲 250戸(8棟)が開発された. 袖ケ浦団地への入居が始まったのは1967年(昭和42年)からとなる. 袖ケ浦団地は,京成津田沼駅からバスで5分,JR新習志野駅(1986年開業)までバスで6分と,都心への通勤にも便利な場所だ.
袖ケ浦団地は,7街区に分かれている. 各街区には4棟から8棟で構成される. 棟1フロアあたり6戸から8戸となり,1棟は5階建てで30戸から40戸が1棟の戸数となる. エレベータは設置されていない.
袖ヶ浦団地中央には袖ヶ浦ショッピングセンターがあり,スーパーマーケット,郵便局,花屋,八百屋,理容室,美容室,病院(内科),整骨院などがある. 特にスーパーマーケットは生活に欠かせない施設となっている.
▼袖ケ浦団地の給水塔.
その袖ヶ浦ショッピングセンターの核店舗となっているのが,スーパーマーケットの大丸ピーコックだ. 大丸ピーコックは,百貨店大丸のスーパーマーケット事業部門として1951年に誕生し,1960年にピーコック産業(株)として分社化した.
▼袖ケ浦団地の袖ヶ浦ショッピングセンター.
「ピーコック」とは「オスの孔雀(くじゃく)」だが,英語圏では「うぬぼれの強い伊達男」という意味で使うこともあり,主婦がよく使う小売店舗名としては違和感がある.
その後,親会社である大丸は,松坂屋ホールディングスと経営統合し,2007年9月3日に新たに共同持株会社「J.フロントリテイリング(株)」を設立し,(株)大丸ピーコック(株)もその傘下となる. (株)大丸ピーコック(株)は,松坂屋ストアと(株)横浜松坂屋ストア,野沢商事(株)を2008年に吸収合併する.
だが,グループの事業構造変革の一貫としてJ.フロントリテイリングからイオンに184億円で株式譲渡が2013年4月に行われ,イオングループが運営するスーパーマーケットブランドのひとつとなり,店舗ブランド名も「ピーコックストア」になる. 新生ピーコックストアは,イオンマーケット(株)が経営をしている.
今団地では,高度成長時代に活躍した世代がつぎつぎに会社を退職し,凄まじい勢いで高齢化が進んでいる. 習志野市の平均と比べて 50代以上の人口割合が多く,20代前半以下の人口の割合が低くなっているのだ. 団地の人口は,1965年(昭和40年)ごろ 9800人にもなっていたが,今は 6200人と3分の2にまで激減している. 習志野市の平均高齢化率は 22% だが,袖ケ浦の高齢化率は 30%を超える.
戸数は維持しているものの,戸数あたりの家族の数が減り,2人世帯が中心となっている.
子育てが終わり,老夫婦だけとなっているのだ. 購買力は下がり,スーパーマーケットの利用も最低限のものだけとなっている.
眺めがよいと選択した5階や4階だが,高齢者には階段の上り下りが苦痛となってきている. 袖ケ浦団地活性化事業のひとつとして,5階のみをシェアハウス型学生寮への転換する案なども検討されているが,子育て家族が増えない限り根本的な解決とはならない.
▼1961年当時の高根台団地.
千葉県船橋市の高根台団地も,1961年(昭和36年)に入居が始まった 2207戸(122棟)の大型団地だ. 袖ケ浦団地より6年古い. 高根台2丁目の高齢化率は37%にもなり,新京成線高根公団駅前のショッピングモールは閑散としシャッター街となってしまっていた.
▼1962年当時の高根台団地.
現状のままでの老朽化した棟のままでは,新たな年齢層の住民も見込めない. 1999年(平成11年)から,老朽化が進んだ棟の建て替えを進めている. 高齢化率も下がってきている.
▼袖ヶ浦団地で計画された,15階建てマンションの完成予想図(左). ▼マンション建設予定地(右).
袖ヶ浦団地においても,分譲化された250戸(8棟)の再構築計画が2008年に立案された. 計画では,8棟を完全に取り壊し15階建てマンション約280戸を建設する案だ. 敷地の4分の3程度が余るため,この土地の売却益をマンションの建設資金に充てることで,住民の負担金なしで実現できるとしていた.
▼完全閉店した大丸ピーコック袖ヶ浦店
袖ヶ浦団地住民の反対で進んでいない. さらに,2011年3月11日の東日本大震災で,袖ヶ浦地区は習志野市内でもっとも大きな被害を受け,計画は頓挫してしまった. だが,近年新たな計画が持ち上がっている. 32階建て超高層タワーマンションにする計画だ. 既存住民の自己負担は 700万にもなる.
そのような状況の中,大丸ピーコック袖ヶ浦店は2016年9月28日(水)をもって完全閉店した. では跡地はどうなったのだろうか...続きを読む