千葉県船橋市古作1丁目の中山競馬場の前身は,松戸相模台の常磐線松戸駅前にあった総武競馬会松戸競馬場(現,松戸中央公園と聖徳大学)だ. 1905年(明治38年)に開場した競馬場だった.
▼千葉県松戸相模台にあった松戸競馬場(左). ▼1937年(昭和12年)ごろの中山競馬場(右).
だが,陸軍の工兵学校を建設するために,松戸競馬場の土地が接収されてしまう.
しかたがなく,1919年(大正8年)千葉県東葛飾郡中山町(現,市川市若宮)の場所に移転することになる. この地名が,中山競馬場命名の由来となる.
▼戦後すぐの,1955年(昭和30年)ごろの中山競馬場(左).
現在の中山競馬場の場所とは異なり,スタンド南西部の千葉県道180号松戸原木線(通称,オケラ街道)を挟んだ反対側のセンタープラザと厩舎(きゅうしゃ)がある場所だった.
1920年(大正9年)に,中山競馬倶楽部中山競馬場に変更され,本格的に開催となるはずが,競馬利権の争いからまともに競馬が開催できない状態が続く. 公営競馬が確立していなかった当時は,政治家を巻き込んだすさまじい利権争いが各地で起きていた. このような状態を打破すべく,中山の地を離れることを検討する.
その場所は,千葉県東葛飾郡行徳町(現,千葉県市川市原木)海岸沿いの塩田跡地(現在の市川市高谷あたりと思われる)へ移転することを計画する. 1917年(大正6年)の台風による高潮(浦安 4.1m,行徳 3.9m)で,全滅した行徳塩田の再利用だった.
▼競馬場完成まじかに,台風による高潮で全滅した. ▼使われることなく廃止となってしまう.
▼現在のコーナン湾岸市川モールの場所あたりになる. ▼行徳競馬場になったかもしれない.
だが,1923年(大正12年) 相模湾を震源にした大正関東地震(相模湾を震源とするM7.9の海溝型の地震)が発生し,完成まじかだった新競馬場(行徳競馬場?)は,0.6m前後と考えられる津波(船橋 0.6m,横浜 1m,浦賀 1.5m,三浦 5m)によって壊滅してしまう.
▼中山競馬場のパドック脇にある中村勝五郎の銅像.
その後,1931年(昭和6年)に江戸川沿いの市川市大洲に市川競馬場(九美上競馬場(クミアゲケイバジョウ)の利権を利用したもの)ができるが,利権や軍馬確保の問題からすぐに終了する.
結局,中山村の向かいの千葉県東葛飾郡法典村古作(船橋市古作)に土地を取得して,1927年(昭和2年)に3カ所目(実質は2回目)の移転となる...続きを読む
▼千葉県松戸相模台にあった松戸競馬場(左). ▼1937年(昭和12年)ごろの中山競馬場(右).
だが,陸軍の工兵学校を建設するために,松戸競馬場の土地が接収されてしまう.
しかたがなく,1919年(大正8年)千葉県東葛飾郡中山町(現,市川市若宮)の場所に移転することになる. この地名が,中山競馬場命名の由来となる.
▼戦後すぐの,1955年(昭和30年)ごろの中山競馬場(左).
現在の中山競馬場の場所とは異なり,スタンド南西部の千葉県道180号松戸原木線(通称,オケラ街道)を挟んだ反対側のセンタープラザと厩舎(きゅうしゃ)がある場所だった.
1920年(大正9年)に,中山競馬倶楽部中山競馬場に変更され,本格的に開催となるはずが,競馬利権の争いからまともに競馬が開催できない状態が続く. 公営競馬が確立していなかった当時は,政治家を巻き込んだすさまじい利権争いが各地で起きていた. このような状態を打破すべく,中山の地を離れることを検討する.
その場所は,千葉県東葛飾郡行徳町(現,千葉県市川市原木)海岸沿いの塩田跡地(現在の市川市高谷あたりと思われる)へ移転することを計画する. 1917年(大正6年)の台風による高潮(浦安 4.1m,行徳 3.9m)で,全滅した行徳塩田の再利用だった.
▼競馬場完成まじかに,台風による高潮で全滅した. ▼使われることなく廃止となってしまう.
▼現在のコーナン湾岸市川モールの場所あたりになる. ▼行徳競馬場になったかもしれない.
だが,1923年(大正12年) 相模湾を震源にした大正関東地震(相模湾を震源とするM7.9の海溝型の地震)が発生し,完成まじかだった新競馬場(行徳競馬場?)は,0.6m前後と考えられる津波(船橋 0.6m,横浜 1m,浦賀 1.5m,三浦 5m)によって壊滅してしまう.
▼中山競馬場のパドック脇にある中村勝五郎の銅像.
その後,1931年(昭和6年)に江戸川沿いの市川市大洲に市川競馬場(九美上競馬場(クミアゲケイバジョウ)の利権を利用したもの)ができるが,利権や軍馬確保の問題からすぐに終了する.
結局,中山村の向かいの千葉県東葛飾郡法典村古作(船橋市古作)に土地を取得して,1927年(昭和2年)に3カ所目(実質は2回目)の移転となる...続きを読む