神社の祭り(例祭)において,境内や近くに路上などで,直線数百メートルの臨時コースを作り,2頭の走馬(はしりうま)が競争する祭典競馬がおこなわれていた. 奉納競馬や直線競馬ともいわれ,日本の競馬のはじまりといわれている.
今でも,5月に京都市北区の賀茂祭(葵祭)で,賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)境内に長さ 400m の直線馬場が設けられ,奉納賀茂競馬(かもくらべうま)がおこなわれている. 織田信長も見物したと言われる歴史のある神事で,1093年(平安時代)から始まった.
▼和歌山県日高郡みなべ町の須賀神社奉納競馬.
1861年,横浜の外国人居留地で西洋式の競馬が盛んに行われるようになる. 楕円形の馬場と複数の馬でレースを行っていた. それが,日本における近代競馬の始まりだった. 明治以降,馬の生産を行っていた地方でも,祭典競馬が盛んに行われるようになる.
▼福島県南相馬市の相馬野馬追甲冑競馬.
1910年(明治43年)の法改正により,公認競馬以外の競馬は産牛馬組合またはまたは競技馬改良増殖を目的とする団体が,地方長官の許可を得なければ行うことはできないとされた. だが,地域で行われる祭典競馬だけは,昔からの慣習ということで規制対象から除外された. 祭典競馬は,宗教色が強い行事ではあったが,的中者に景品を出すという形で賭け事もおこなわれていた. 大相撲くじのようなものだった.
▼横浜市中区蓑沢にあった根岸競馬場(横浜競馬場).
さらに,1927年に法改正がおこなわれ,祭典競馬の開催基準が厳しくなり,祭典競馬はしだいに姿を消していく. 1927年(昭和2年)に農林省,内務省と軍部により地方競馬規則が制定され,はじめて「地方競馬」が法的な地位を得る. これにより,競馬倶楽部は解散され,地方競馬は52主催者,59競馬場となり,競馬熱が高まっていく.
しだいに戦争の足音が高まりつつあった. 1927年の南京事件. 1931年に満州事変(15年戦争). 1937年に日中戦争(支那事変). そして,1939年に第二次世界大戦が勃発する. 軍馬確保のために,1938年(昭和13年)国家総動員法と1939年(昭和14年)の軍馬資源保護法の公布により,多くの競馬場は廃止される.
軍馬には向かないサラブレッドは公認競馬に移り,地方競馬は軍馬に適したアングロアラブが推奨され,障害競走や速歩競走になっていく. さらに,日本の馬の半分が戦地へ送られ,悪路を走れないサラブレッドは,天然痘などのワクチン製造に使われた. そして,1941年真珠湾攻撃,1942年ミッドウェー海戦,1945年8月6日ヒロシマへウラン型原子爆弾が投下,8月9日にナガサキへプルトニウム型原子爆弾が投下され,8月15日正午の玉音放送をもってポツダム宣言(日本軍の無条件降伏)を受諾,長い戦争は収束する.
▼旧日本陸軍の将校向けに軍馬が戦地に送られた.
1945年秋には,法的根拠を持たない闇競馬が行われ始める. 1946年11月,ようやく地方競馬法が施行される. だが,闇競馬の悪き慣習が残り,各地で反社会的勢力による八百長が原因と思われる騒擾事件(そうじょうじけん)がおきる. GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導により,1948年に競馬法が成立し,従来の公認競馬は国営化,馬連競馬(地方競馬)は公営化し都道府県知事にゆだねることが決定された.
これにより,地方競馬場は全国で61箇所に増えたが,競走馬が足りず,満足に開催することができなかった. 戦後の復興財源の確保から,馬を必要としない公営ギャンブルを望む声が高まっていく.
▼千葉県東葛飾郡柏町(現,柏市)にあった柏競馬場.
自転車競技法(1948年)によって競輪が開始. 小型自動車競走法(1950年)によってオートレースが開始. モーターボート競走法(1951年)によって競艇と,つぎつぎに新しいギャンブルが立ち上がる.
▼船橋競馬場を使ったオートレース.
特に,南関東4競馬場は,交通の利便性が良いいことから順調に売上を伸ばし,中央競馬(JRA)をしのぐ繁栄をする. しかし,1970年後半以降,余暇の多様化などから地方競馬の売り上げは伸び悩む. 和歌山県和歌山市の紀三井寺競馬場が,1988年に廃止へと追い込まれるのを皮切りに,つぎつぎに地方競馬場は経営困難になっていく.
競馬だけではない,公営ギャンブル全体の衰退が止まらない. 船橋オートレース場も,2015年度末で廃止することがほぼ確定している. JRA(日本中央競馬会)主催の売上げは,9割弱を占めるが,ピークであった1997年(平成9年) 4兆7億円だったが,2011年(平成23年)には約4割の減少の 2兆2936億円となっている.
その売上低迷をなんとか脱したのが南関東4競馬場(大井/川崎/船橋/浦和)のひとつ,大井競馬場(東京シティ競馬)だ...続きを読む
今でも,5月に京都市北区の賀茂祭(葵祭)で,賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)境内に長さ 400m の直線馬場が設けられ,奉納賀茂競馬(かもくらべうま)がおこなわれている. 織田信長も見物したと言われる歴史のある神事で,1093年(平安時代)から始まった.
▼和歌山県日高郡みなべ町の須賀神社奉納競馬.
1861年,横浜の外国人居留地で西洋式の競馬が盛んに行われるようになる. 楕円形の馬場と複数の馬でレースを行っていた. それが,日本における近代競馬の始まりだった. 明治以降,馬の生産を行っていた地方でも,祭典競馬が盛んに行われるようになる.
▼福島県南相馬市の相馬野馬追甲冑競馬.
1910年(明治43年)の法改正により,公認競馬以外の競馬は産牛馬組合またはまたは競技馬改良増殖を目的とする団体が,地方長官の許可を得なければ行うことはできないとされた. だが,地域で行われる祭典競馬だけは,昔からの慣習ということで規制対象から除外された. 祭典競馬は,宗教色が強い行事ではあったが,的中者に景品を出すという形で賭け事もおこなわれていた. 大相撲くじのようなものだった.
▼横浜市中区蓑沢にあった根岸競馬場(横浜競馬場).
さらに,1927年に法改正がおこなわれ,祭典競馬の開催基準が厳しくなり,祭典競馬はしだいに姿を消していく. 1927年(昭和2年)に農林省,内務省と軍部により地方競馬規則が制定され,はじめて「地方競馬」が法的な地位を得る. これにより,競馬倶楽部は解散され,地方競馬は52主催者,59競馬場となり,競馬熱が高まっていく.
しだいに戦争の足音が高まりつつあった. 1927年の南京事件. 1931年に満州事変(15年戦争). 1937年に日中戦争(支那事変). そして,1939年に第二次世界大戦が勃発する. 軍馬確保のために,1938年(昭和13年)国家総動員法と1939年(昭和14年)の軍馬資源保護法の公布により,多くの競馬場は廃止される.
軍馬には向かないサラブレッドは公認競馬に移り,地方競馬は軍馬に適したアングロアラブが推奨され,障害競走や速歩競走になっていく. さらに,日本の馬の半分が戦地へ送られ,悪路を走れないサラブレッドは,天然痘などのワクチン製造に使われた. そして,1941年真珠湾攻撃,1942年ミッドウェー海戦,1945年8月6日ヒロシマへウラン型原子爆弾が投下,8月9日にナガサキへプルトニウム型原子爆弾が投下され,8月15日正午の玉音放送をもってポツダム宣言(日本軍の無条件降伏)を受諾,長い戦争は収束する.
▼旧日本陸軍の将校向けに軍馬が戦地に送られた.
1945年秋には,法的根拠を持たない闇競馬が行われ始める. 1946年11月,ようやく地方競馬法が施行される. だが,闇競馬の悪き慣習が残り,各地で反社会的勢力による八百長が原因と思われる騒擾事件(そうじょうじけん)がおきる. GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導により,1948年に競馬法が成立し,従来の公認競馬は国営化,馬連競馬(地方競馬)は公営化し都道府県知事にゆだねることが決定された.
これにより,地方競馬場は全国で61箇所に増えたが,競走馬が足りず,満足に開催することができなかった. 戦後の復興財源の確保から,馬を必要としない公営ギャンブルを望む声が高まっていく.
▼千葉県東葛飾郡柏町(現,柏市)にあった柏競馬場.
自転車競技法(1948年)によって競輪が開始. 小型自動車競走法(1950年)によってオートレースが開始. モーターボート競走法(1951年)によって競艇と,つぎつぎに新しいギャンブルが立ち上がる.
▼船橋競馬場を使ったオートレース.
特に,南関東4競馬場は,交通の利便性が良いいことから順調に売上を伸ばし,中央競馬(JRA)をしのぐ繁栄をする. しかし,1970年後半以降,余暇の多様化などから地方競馬の売り上げは伸び悩む. 和歌山県和歌山市の紀三井寺競馬場が,1988年に廃止へと追い込まれるのを皮切りに,つぎつぎに地方競馬場は経営困難になっていく.
競馬だけではない,公営ギャンブル全体の衰退が止まらない. 船橋オートレース場も,2015年度末で廃止することがほぼ確定している. JRA(日本中央競馬会)主催の売上げは,9割弱を占めるが,ピークであった1997年(平成9年) 4兆7億円だったが,2011年(平成23年)には約4割の減少の 2兆2936億円となっている.
その売上低迷をなんとか脱したのが南関東4競馬場(大井/川崎/船橋/浦和)のひとつ,大井競馬場(東京シティ競馬)だ...続きを読む