千葉市では,真夏8月お盆明けごろに「親子三代夏祭り」というイベントがおこなわれている. 過去41回行われている歴史ある祭りだ. 「おじいちゃんから子どもまで三代にわたって祭りを盛り上げよう」という意味もあるが,千葉にとっての「親子三代」には別の意味がある.
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千葉の「親子三代」と言えば,千葉開府した「千葉常重(つねしげ)」,源頼朝を助け鎌倉幕府成立に貢献した「千葉常胤(つねたね)」,源平合戦や奥州合戦で功績をあげた「千葉六党(りくとう)」の千葉一族の3人を言う. 今から890年前の1126年(大治元年),「千葉常重」が亥鼻(いのはな)付近(現在の千葉県文化会館と千葉大学医学部付属病院周辺)に本拠を構え,以後戦国時代まで千葉氏がこの地を統制した. この時,千葉一族の守護神として北斗山金剛授寺(現,千葉神社)が開設される.
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亥鼻(いのはな)の高台には,千葉常重が築城した千葉城(亥鼻城,千葉市中央区亥鼻1丁目)があったとされる. 現在は,鉄骨鉄筋コンクリート造り5階建ての通称千葉城(千葉市立郷土博物館)が建っている.
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だが,天守閣形式の城は,戦国時代以降に建てられたものとなり,千葉一族が建てたとすると,この千葉城のデザインは時間軸が合わない. 当時の城は,館形式であり,「千葉常胤(つねたね)」が建てた城とはまったく異なる. したがって,ここの地域名から亥鼻城(いのはなじょう)と言うべきで,城マニアの間では,模擬天守閣とかコスプレ千葉城などとも言われている.
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1590年(天生18年),徳川家康が関東の江戸に入り(江戸御打入り),関東全域を支配することとなる. 現在の千葉市域は,生実藩領,佐倉藩領,幕領(天領)などで支配される. 特に,生実藩の森川氏(堀部氏)は,千葉市中央区生実町に陣屋を置き,1871年(明治4年)の廃藩置県まで250年にわたりこの地域を支配する.
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1871年(明治4年),明治新政府の廃藩置県により,佐倉県,館山県など24(全国で300以上)もの県が誕生する. さらに,府県の統廃合により,木更津県(県庁所在地は現在の木更津市),印旛県(県庁所在地は印旛郡佐倉),新治県(にいはりけん,県庁所在地は土浦)の3県となる. 1873年(明治6)印旛県と木更津県を千葉県とし,千葉郡千葉町(現,千葉市中央区本千葉町,京成千葉中央駅あたり)に千葉県庁を置く. 1875年(明治8年)に新治県の一部(利根川の南側)が千葉県に編入され,ほぼ現在の千葉県域となった.
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当時の千葉町は,千葉神社(現,千葉市中央区院内1丁目)周辺が門前町となっていて,ここを中心に繁華街となっていた. この繁華街を避けるように,西側の街のはずれの場所に,総武鉄道の千葉駅(現,東千葉駅の手前の千葉市民会館あたり)が開業する. 1894年(明治27年)のことだった.
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一方京成は,現千葉中央公園のところに京成千葉駅を1921年(大正10年)に開業させる. 千葉神社の参拝客を見込んだ駅設置だったものと思われ,総武千葉駅よりも京成千葉駅の方が乗客数が多かった.
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その後,1931年(昭和6年)9月の満州事変,1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)と大きな戦争の流れの中で,千葉市には国の重要な軍事施設が集中して設置されるようになる. そして,「軍郷千葉市」と呼ばれるようになる. 1941年(昭和16年)12月8日,ハワイ真珠湾攻撃により対米英戦争(太平洋戦争)に参入する.
1923年(大正12年)の関東大震災(安房地震)で変形してしまった鉄道. この地震により千葉駅は2代目に建て直す.
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千葉市内には,千葉連隊区司令部, 千葉陸軍病院, 千葉看護婦学校, 鉄道第一連隊, 千葉陸軍兵器補庫, 気球連隊,陸軍歩兵学校, 千葉陸軍戦車学校, 千葉陸軍高射学校, 陸軍市下志津飛行学校, 軍需工場の日立航空機千葉工場(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)などが設置されていた.
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1945年(昭和20年)6月10日(日)の千葉空襲では,戦闘機のエンジンを組み立てていた日立航空機千葉工場(現,JFEスチール東日本製鉄所千葉工場),千葉県立千葉高等女学校,千葉師範学校女子部(千葉大学教育学部の前身),鉄道省千葉機関区などが空襲(死傷者数 391人)の標的になる. 軍需工場には関係なさそうな女子校校舎が標的になったのは,日立航空機の疎開秘密工場になっていたからだった.
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さらに,1945年7月7日(土)の千葉七夕空襲で千葉市街地が襲われ,富士見国民学校(現,東京電力千葉営業所),鉄道省千葉鉄道管理部,千葉駅,本千葉駅,京成千葉駅,鉄道第一連隊(千葉市中央区椿森)などが焼失(死傷者数 1204人)する. この七夕空襲により,千葉市中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となる. この2回の空襲による総死傷者は 1595人, 被災戸数 8904戸, 被災者は総人口7万8000人の内 4万1212人にもおよんだ. 1945年(昭和20年)8月15日,ポツダム宣言の受諾により15年にわたる悲惨な対米英戦争(太平洋戦争)は終結する.
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この戦争によって,日本の主要都市は空襲を受けて焼け野原となり,多くの主要な駅舎も数多く焼失した. 線路や車両の復興を優先したことから,多くの駅舎は仮駅舎のままとなっていた. 復興を急ぐため,駅舎内に商業施設を併設することで地元有力者の民間資本を集め駅を造ることにする. このような駅を,民衆駅という.
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民衆駅は,1950年に開業した豊橋駅(第1号)の豊橋ステーションビル. 1950年開業した池袋駅(第2号)の池袋駅西口民衆駅ビル(池袋ターミナルホテル). 1951年に開業した秋葉原駅(第3号)の秋葉原会館(アキハバラデパート). 1954年に開業した東京駅(第14号)八重洲口鉄道会館(大丸東京店). 1956年に開業した水戸駅(第16号). 1958年に開業した宇都宮駅(第20号)駅デパート(ラミア). 1963年(昭和38年)に開業した千葉駅(第34号)の千葉ステーションビル(のちにペリエ)などとなる.
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焼け野原となった千葉市は,戦災復興事業によって区画整理が行なわれ,国鉄千葉駅,本千葉駅,京成千葉駅の駅舎移転計画が立ち上がる. 新しい千葉駅(民衆駅)の移転に先立ち,1958年(昭和33年)に京成千葉線の新千葉駅-京成千葉駅(現,千葉中央駅)間が現在のルートに移設される. 京成千葉駅は現在の千葉中央駅の位置に移転する. 当時の本千葉駅が,千葉駅の移転先に近かったことから,先に現在の場所に移転する.
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そして1963年(昭和38年)に,新しい千葉駅を建設するにあたり,現在の東千葉駅の海よりにあった千葉駅を,800m ほど離れた現在の場所に引っ越す. この新しい駅が3代目千葉駅となる...続きを読む