東京ベイ船橋ビビット2017-2016-2015-2014

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あのとき、千葉市川市

山崎パン発祥の地に総合クリエイションセンターを建設@市川市市川(3)

京成本線国府台駅から南側に50m ほどの江戸川ぞいの場所に大きな関所があった. それが,小岩市川関所(市川御番所)だ. 全国に21カ所あった重要関所のひとつとなっていた.
1834年_江戸名所図会_市川関所_01020120331_市川_小岩_成田街道_渡し_番所_018
関所(番所)は,幕府がおかれた江戸を守るために検問(監視)をおこなっていた場所で,鉄砲持ち込みによる反乱(テロ)防止や,各藩の大名家族の女性などが逃げ出さないよう,厳しい取り締まりをおこなっていた. 一般庶民の女性になりすまして通過することも考えられたため,女性の旅自体も厳しく制限されていた. この検問の仕事を,「入り鉄砲に出女(でおんな)」と言われていた.
1872年_小岩市川関所_市川番所_1121896年_小岩市川関所_市川番所_112
江戸幕府は,各大名を統制するために,「武家諸法度」や「参勤交代制度」をおこなう. 武家諸法度」によって新たな城は造れなくなり,大名家同士での結婚も許可が必要だった. また,「参勤交代制度」によって大名(武家)の妻子を江戸藩邸に住ませ,幕府の人質としていた. 大名の家族の女性が,「だまって江戸から自国へ逃げ帰える」ことは幕府への反乱行為とみなされた.
1928年_下総国_国府_根本_1161961年_山崎製パン_ヤマザキパン_110
小岩市川関所(市川御番所)は,江戸川(太日川)をはさんで小岩側(伊予田村,現東京都)と市川側(現,千葉県)にあった. 小岩側は,佐倉道水戸佐倉道(岩槻道)との合流地点となっていて,市川側は佐倉道(成田街道)と利根川からの木下道(下総鮮魚街道)との交差路となり陸上交通の要所となっていた.
1974年_山崎製パン_ヤマザキパン_11220120511_ヤマザキパン中央研究所兼研修センタ_010
当時の江戸川の水量は,いまほど多くなく川幅も広くなかっので,木造の橋を架けることもできたが,水上交通として帆船を通さないといけなかったことと,防衛上問題から橋は架けられていなかった.
20150330_小岩市川関所_市川御番所_江戸川_14220100410_ヤマザキパン中央研究所兼研修センタ_1104_DSC00841
小岩と市川の間を「小岩市川の渡し」として渡し舟が行き来し,常時2-3艘の船を,20人前後の船頭や人夫で運行してていた. 関所付近は「御番所町」とよばれ,旅籠屋(はたごや)や掛茶屋(かけぢゃや),あめ屋,豆腐屋,ぬか屋などが立ち並んで活気ある街道筋となっていた.
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幕末の1862年(文久2年)には参勤交代が緩和されて1年ごとから3年に一度になり,大名の妻と子どもの帰国も自由となる(出女の廃止). 1863年(文久3年)には,関所手形が簡略化され実質上のフリーパス状態となる. 1868年(慶応4年)各藩の口留番所が廃止され,1869年(明治2年)には「関所廃止令」が出され,全ての関所は廃止される. そして,江戸幕府と武士の時代が終了,新しい明治政府による天皇親政体制へと転換する.
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1894年(明治27年)7月,総武鉄道の市川駅-佐倉駅間が開業,1894年12月には江戸川の鉄橋が完成(京成電鉄の江戸川橋は1905年完成)して本所駅(現在の錦糸町駅)までが開通すると,市川の繁華街は御番所町から市川駅前に移ってくる.
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時代はかわり,太平洋戦争(第二次世界大戦)の空襲や労働者不足から日本は荒廃し,工業や農業などの生産力は大幅に低下していた. 深刻な食糧難になっていた日本へ,米国から大量の小麦が無償で援助される. 小麦は,焼いてパンにすることが推奨され,学校給食にも導入される.
20120331_ヤマザキパン中央研究所兼研修センタ_0929_DSC08695T]20120331_ヤマザキパン中央研究所兼研修センタ_0929_DSC08698
そのようなことから,日本各地に製粉工場やパン工場ができる. 現在,世界第2位の山崎製パン(ヤマザキ)も,この時代に創業をした. 山崎製パン発祥の地は,市川市の市川御番所跡地となる(実際には数十メートルズレているという説もある).
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市川御番所跡地は市川郵便局が取得して,1876年(明治9年)から電信電話の業務をおこなっていた. その後市川郵便局は,1945(昭和20)年に現在の市川市平田に移転することになる.
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体育教師だった飯島藤十郎によって,山崎製パン所が1948年(昭和23年)3月9日に誕生する. 実は,飯島はすでにこれとは別の製パン所を立ち上げていて,二重に免許を取得できなかったことから,妹「裕代」の嫁ぎ先の姓であった「山崎」の名前を使って山崎製パン所を立ち上げたのだった. 妹「裕代」の夫「山崎要太郎」は,新宿中村屋で修行した時の仲間だった.
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当時の山崎製パン所は 40m2(12坪=21畳)ほどしかなく,石窯もひとつしかなかった. おそらく,市川郵便局の木造の建物をそのまま受け継いだものと思われる. 小麦の調達が難しい時代だったため,小麦の提供を受けパン焼きのみをおこなうパン委託加工所で,当時のパンは,コッペパン(紡錘形で底の平たいパン)だった.
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1952年(昭和27年),市川駅前に包装した食パンを売る直営の「市川売店」を開店させる. その後,長さ25cmもあるロシアパン(コッペパンを大きくし,表面に砂糖とマーガリンを塗った甘いパン)を販売する.
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このロシアパンの成功が,山崎製パンを大きくするきっかけとなる...続きを読む

災害は防げるのか@市川の「八幡の藪知らず」の伝説の謎(43)

JR総武線本八幡駅から徒歩5分ほどの,国道14号(千葉街道)ぞいの市川市役所(千葉県市川市八幡1丁目)の斜め向かいに,うっそうと生い茂る竹林がある. 電車を使って市役所へ行く市民は,ほとんどこの脇を通っていく場所だ. 近くには,歴史ある八幡神社(葛飾八幡宮)がある.
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この竹林(千葉県市川市八幡2丁目)のタケ(竹)は孟宗竹(モウソウダケ/モウソウチク)で,日本のタケ種の中で最大,高さ25mに達するものもある. 竹林は,東西に約20m,南北に約10mで,わずか20m2ほどの広さとなっている. 竹林のまわりを囲むように,国道14号,駐輪場,事業用ビルなどが取り囲んでいて,ここだけ異質な雰囲気を感じさせる.
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ここは不知八幡森(しらずやわたのもり)ともいわれ,[八幡のヤブ知らず]という通称名がつけられ,かなり古くから「禁足地(入ってはならない場所)」とされてきた. 神隠しの森ともいわれる. その八幡のヤブ知らずの国道14号側には,小さな不知森神社(しらずもりじんじゃ)とその鳥居,伊勢屋宇兵衛(いせやうひょうえ)がたてた石碑がある.
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伊勢屋宇兵衛は,常陸国(ひたちのくに)信太郡(しだぐん,現在の茨城県土浦市霞ヶ浦南岸)出身. 葛東郡(現在の千葉県野田市,流山市,松戸市,市川市,浦安市)を中心に,醤油や酢の問屋業をおこなっていた商人で,大都市江戸への物流と販売をおこなっていた. 伊勢屋宇兵衛は,物流をになっていた街道を中心に自費で数かずの橋などを造ったが,その脇に必ず大きな石碑をたてている. 宣伝効果を狙ったものだったものと思われる.
1840年(天保10年)ごろに斎藤月岑によって刊行された江戸名所図会めぐり葛飾八幡宮. 葛飾八幡宮とともに,絵の右端には不知八幡森(しらずやわたのもり)が書かれている.
1840年_江戸名所図会めぐり_葛飾八幡宮_八幡宮_11620170306_市川市八幡2_不知森神社_112
江戸時代当時,八幡のヤブ知らずの近くには千葉街道(現,国道14号)と木下街道(きおろしかいどう,現千葉県道59号市川印西線)の交差点となっていた. その街道脇にあった八幡のヤブ知らずの数数の伝説を聞き,荷物の運搬中の天災や事故などのわざわいが起きないよう,ここに小さな不知森神社(1857年春)を立てたのだろう. ここにも,伊勢屋宇兵衛の大きな石碑がたっている.
1872年(明治5年)ごろの不知八幡森周辺(左). 1896年(明治29年)ごろ(右).
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江戸時代当時の八幡のヤブ知らずは竹林ではなく,うっそうと茂った雑木林だった. ここには,怪しい数かずの伝説が言い伝えられている. 例えば,「入ると二度と出てこられないとおそれられている」. 「竹ヤブを切り開こうとした者たちが次々と変死した」. 「入れば必ず祟(たたり)がある」. 「入ったら死ぬ」などだ. 娯楽が少なかった江戸時代から大正時代の庶民は,このような怪しい話が大好きで,徐じょに話が盛られていったのだろう. 今でいう,心霊スポットやミステリースポット,パワースポットというような場所であった.
1945年(昭和20年)ごろの不知八幡森周辺(左). 1974年(昭和49年)ごろ(右).
1945年_市川市八幡2_不知森神社_1101974年_市川市八幡2_不知森神社_112
八幡のヤブ知らずへ「立ち入ってはならない」理由があったはずだが,本当の理由は忘れさられ,なぜか怖い怪しい話だけが残った. ここの近くに,平安時代の寛平(かんぴょう,889年-898年)に建立されたという八幡神社(葛飾八幡宮)があるが,なんらかの関係があるのかもしれない. 幕末に,大変な騒ぎとなっていたあることが理由で,現代までこの地が手がつけられなかったのかもしれない...続きを読む
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