2011年(平成23年)3月11日 金曜日 14:46,あの東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した. 三陸沖南部,深さ 24km の海溝で最初の地震が起き,ドミノ倒しのようにほぼ同時に連鎖して地震が起きる海溝型連動地震だった. 3連動であったと考えられている.
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動いたのは,三陸沖から茨城沖までの長さ500km,幅250km にもなる. 地震の規模を示すマグニチュードは M9.0 と,近代観測史上日本最大の超巨大地震だった.
宮城県仙台平野を襲う東北地方太平洋沖地震の大津波.
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この東北地方太平洋沖地震による死者数は 1万5893人,行方不明者数はいまだに 2554人もいる. 地震発生時の 14:46 ごろは,公立小学校の3年生以上は6校時の授業中で,1-2年生は「帰りの会(終わりの会)」などを行い,児童の下校準備を始めていた時間であった. この微妙な時間帯が生死を分けることとなる.
宮城県の名取市と岩沼市にまたがって位置する仙台空港.
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1995年(平成7年)1月17日 朝5:46に発生した直下型地震の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では,木造住宅の倒壊による圧死と火災による焼死がほとんどだったが,東北地方太平洋沖地震では住宅などの倒壊は少なかった. 犠牲者は,岩手県から宮城県,福島県の3県の湾岸に集中し,そのほとんどが津波による犠牲者だ. その犠牲者の内,小中学校の児童生徒だけでも 342人にもなった.
宮城県石巻市釜谷字山根の石巻市立大川小学校.
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宮城県の石巻市立大川小学校(石巻市釜谷字山根)でも,児童74人,教員10人が,10mを越す津波の濁流にのみ込まれ,全校児童108人の7割もが犠牲者となっていた. 大川小学校近隣の相川小学校(あいかわしょうがっこう,石巻市北上町十三浜相川),雄勝小学校(おがつしょうがっこう,石巻市雄勝町雄勝小淵)の2校も,同じように津波に飲み込まれて水没した. にもかかわらず,この2校は地域住民や教職員の適切な判断により,小学校の裏の高台に避難して犠牲者はゼロだった.
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相川小学校雄勝小学校の2つの小学校と,大川小学校の生死を分けた理由は何だったのか. これらの違いが詳しく分析されれば,今後の対策に生かされるに違いない. しかし,教員10名が亡くなっていることもあり,詳細は謎のままだ. 石巻市教育委員会の非協力的な対応のため,いまだに謎のままとなっている.
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石巻市教育委員会は,すぐに助かった大川小学校教職員に聞き取り調査をしているが,そのメモをすぐに破棄してしまい,事実隠ぺいとも受け取られることをしていたことが判明する. 児童23人の19遺族と石巻市との信頼関係は崩れ,「原因究明がされていない」として石巻市と宮城県を相手取って損害賠償訴訟をすることになる.
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2016年10月26日,仙台地裁(裁判長高宮健二)は「津波襲来を予見できた」として大川小学校側の過失を認め,石巻市と宮城県に総額約14億3千万円を支払うよう命じた. 石巻市は仙台地裁判決を不服として仙台高裁に控訴の考えを表明する. (その後,遺族側も,控訴する考えを示す)
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同じように津波が押し寄せたにもかかわらず,小中学生約3000人の生存率が 99.8%(学校での犠牲者はゼロ)だった場所がある. これを「釜石の奇跡」と呼ぶ. 岩手県釜石市の湾岸の小学校のことだが,決して「偶然の奇跡」だったわけではない. 津波防災教育のモデル校として,群馬大学災害社会工学の片田敏孝教授の監修により「津波からの避難訓練」を8年間続けてきた結果の成果なのだ.
岩手県釜石市鵜住居町の釜石市立鵜住居小学校釜石市立釜石東中学校.
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津波の可能性がある地震が発生すると,とにかく避難所へ全速力で走る. このように集団で行動する場合,学校側は整列させて点呼をおこなうが,それすらおこなわない. 自分の命は自分で考えて守る」が基本にある. 釜石市立鵜住居小学校(うのすまいしょうがっこう)と釜石市立釜石東中学校は,海岸線から約800m,海抜1.5m ほどの川沿いの低地に並んで建っていた.
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それぞれの学校の一次避難所は,約700m離れたございしょの里の広場(海抜6,1m)だったが,当時雪が降っていたこともあり,鵜住居小学校は校舎の3階へ避難する. だが,近くの釜石東中学校の生徒が全速力で学校外部へ避難しているのを見て,鵜住居小学校も学校外の避難に切り替える.
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だが,ございしょの里の海抜は 6.1m しかなく,しかも裏側は急な崖になっていた. 中学生から,二次避難場所の老人福祉施やまざきデイケアサービス(海抜13m)へ逃げる提案があり,小学生の手を引きながらさらに高台に避難する. 結局,この地区の津波遡上高(そじょうこう)は20mにまで達し,ございしょの里はあっという間に水没した. 20mは,最近のマンションなら6階建てに相当する.
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津波遡上は,やまざきデイケアサービスの手前でようやく止まった. さらに高い仲野石材店(海抜約44m)や三陸道路まで上がった中学生もいた. 防災教育の中で,自分でハザードマップを作るなどをしていたことから,どこへい逃げればいいのかは把握していた. まさに,「自分の命は自分で考えて守る」の考えが,訓練によって「想定にとらわれない判断力」が育った結果だった.
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三陸地方沿岸部各地には,「津波てんでんこ」という言葉が言い伝えられている...
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てんでんこ」の語源は,「てんでんバラバラ」と同じ使い方で「各自好き勝手にやっている」ことをいう. つまり,「海岸で大きな揺れを感じたときは,肉親にもかまわず,各自てんでんばらばらに一刻も早く高台に逃げて自分の命を守れ」という意味となる.
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地震が来たら津波が来る」は有名な言い伝えだが,その他にも「大蛇がふもとの人達を脅かし田畑を荒らして暴れていた」,「大蛇が暴れて沼地になった」などと,災害が多い日本各地には大蛇伝説(オロチ伝説)が多数ある. おそらく,ほとんどの大蛇は,大津波高潮,河川の氾濫,大規模地滑り,竜巻などの自然災害のことであったと思われる.
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三陸地方沿岸部には,この「津波てんでんこ」の言い伝え以外にも,「高き住居は児孫の和楽(高い場所に住めば,我われの子孫の平和と幸せが訪れる)」,「想へ惨禍の大津浪,此処より下に家を建てるな(大津波の災いを忘れるな,ココより下に家を建てるな)」,「強い地震の後はすべてを捨てて高い場所へ向かえ」などといった石碑(碑文)がいくつも立っていて,しかも今回の津波で流されていない.
船橋市消防局による東北地方大震災の救助活動.
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この地に住んでいた先人からの警告だったのだ.地域の有力者(元地主など)の古い家は,概ね高台にあることから,今回の津波でもほとんど被害を受けていない. 今回の海岸部に住んでいた家では,「おばあちゃん,ごめんね」と涙を流しながら逃げて助かった人,祖母を助けるために勤め先から自宅へ戻り,そのまま津波に襲われた人もいる.
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三陸は,リアス式海岸という独特の地形のため,海水(津波)が狭い入り江に一気に入り込んで,津波が遡上しやすく,過去に何度も津波の被害を受けてきた. これらの石碑は,約400年前(1611年)伊達政宗の時代の慶長三陸地震(M8.1,慶長16年)によって東北地方を襲った歴史的大津波の慶長地震津波の犠牲者 4780人や,1896年(明治29年)明治三陸地震(M8.2)の明治三陸大津波の 2万2000人,1933年(昭和8年)の昭和三陸津波(M8.1)の犠牲者 3060人などの教訓をもとに立てられた.
1896年(明治29年)の明治三陸地震津波.
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特に慶長三陸地震は,北方領土沖から北海道東沖付近で最初に発生した地震が,三陸沖北部まで3回に分けて連動した全長約1500kmにもおよぶ巨大地震であったと考えられている.
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仙台平野においては,慶長三陸津波以後約10年を経ても米が収穫できなかったという記録がある. 今回の,東北地方太平洋沖地震よりも,津波が内陸地まで入り込んで,広い範囲で塩害になっていたと思われる.
1896年(明治29年)の明治三陸地震津波.
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そして2011年の東日本大震災(M9.0,死者行方不明2万人超え)と,ほぼ50年-150年おきに大きな犠牲者を出している. 東京電力は,「今後の大津波発生の頻度を700年に1回と見積もる」とした. 今回の地震では,「未曾有」,「1000年に1度」,「想定外」という表現が多様されたが,ほんとうにそうだろうか.
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これらの石碑や言い伝えや伝説は「過去を忘れるな」といっている. あの時の記憶を風化させてはならない.
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