ヨーロッパ最大の経済大国がドイツ(ドイツ連邦共和国)だ. 第二次世界大戦では,日本ドイツは同盟国としてファシズムや軍国主義に走って共に敗戦する.
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戦後,両国とも焼け野原になった街から急速に復興し,2014年のGDPランキングでは日本が4,602億ドルで世界第3位,ドイツが3874億ドルで世界第4位となっている.
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ドイツ人は,ヨーロッパ諸国の中では比較的日本人気質に近いといわれ,真面目で几帳面,勤勉,時間に正確で規律正しい. ヨーロッパのドイツ人とフランス人,イタリア人の気質をあらわすものとして,「クラクションを鳴らして運転するのがフランス,クラクション鳴らしながら怒鳴りちらすのがイタリア,そしてマナーを守るのがドイツ」といった例えもある.
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明治初期,ドイツ(当時はプロイセン)から学んだものは多い. 日本の官僚制度も,ドイツを参考にしたものだ. その他にも,法制度や軍事,医学,化学,地学など学問や文化もドイツから強い影響を受けた. 森鴎外や北里柴三郎も医学の勉強のためにドイツへ渡っている.
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1914年8月イギリスは,ドイツ帝国陸軍がベルギーに侵入したことを確認し,ドイツに宣戦布告し,日英同盟に基づいて日本にも参戦を要請する. 1914年11月,大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は,ドイツの東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省(シャントンショウ)の青島(チンタオ)の要塞を攻略する. 第一次世界大戦時の日独戦争だ.
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青島で捕らえたドイツ帝国軍捕虜(ほりょ) 4697名は,千葉県の習志野俘虜(ふりょ)収容所(約1000人)や徳島県の板東俘虜収容所(約1000人),広島県の似島検疫所俘虜収容所(545人)など,西日本を中心に16カ所に送られた. ドイツ人だけではなく,オーストリア人やハンガリー人もいた. ハーグ条約で強制労働が禁止されていたドイツ兵俘虜の扱いはきわめてていねいで,地元住民との交流も許され,明るくて人懐っこいドイツ人は,すぐに近隣住民と仲良くなり,「ドイツさん」と呼んで親しまれるほどであった.
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習志野俘虜収容所の初代所長は,西郷隆盛の長男西郷寅太郎中佐だった. ドイツ陸軍士官学校を卒業した後,13年もの間ドイツに滞在し,ドイツの文化や気質をよく知っていた. 収容所内でおこなわれた労働には賃金も支払われ,上海などから楽器も手に入れていた. また,家族などとの手紙のやり取りが月3通まで許され,そのための切手や便箋も無償で支給されていた.
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5年間にわたる日本での生活で,地域住民との交流で,音楽,スポーツなど数多くのドイツ文化が日本に伝えられることになる. ドイツ料理をはじめ,パンやチーズ,ソーセージの製法なども伝わる. 日本語として定着している「ビックリ」は,ドイツ語の「Wirklich」(本当に?)が語源であるとされている. 収容所では,特に音楽が活動に行われていた...
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1883年生まれのヴァイオリニストハンスミリエス(H.Millies)が指揮する60人ほどの習志野捕虜オーケストラと,アルフォンスヴェルダンが指揮する約60人の習志野捕虜男性合唱団があった. ハンスミリエスは,帰国後リューベック市国立音楽院大学院長を経て,シュレスヴィッヒホルスタイン州立音楽院校長などを歴任している.
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収容所内の演奏会だけでなく,周辺住民のための演奏会も頻繁におこなわれ,音楽教育もおこなっていた.それから100年,いまでも音楽の文化が引き継がれている. 音楽のまち習志野」として,習志野市内の小学校,中学校,高校では,毎年全国コンクールで優秀な成績を収めているのも,そのようなドイツ文化の影響があったからだろう.
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年末の定番,ベートーヴェンの交響曲第9番(第九)は,ドイツ帝国軍捕虜によって演奏され,日本に根付いたものだ. 習志野文化ホールでも,習志野第九演奏会が行われ,約300人の団員がハーモニーが響きかせる.
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ドイツ人捕虜が帰国して20年後,さらに悲惨な第二次大戦(太平洋戦争)が始まる.

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