2011年3月11日(金) 14:46,三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が起きた.
▼宮城県南三陸町の海岸線から出る日の出.
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地震の規模を示すモーメントマグニチュードは 9.0. 日本国内観測史上最大,1900年からの観測の中で世界第4位の巨大地震だった. この地震による死者行方不明者数 1万8517人(2014年3月10日時点),建築物の全壊半壊は 40万0151戸にもなった. その東日本大震災から4年となった. 日を数えると,1461日が過ぎたことになる.
▼2011年3月11日(金) の朝は曇りで,日の出は見られなかったが,微風でおだやかな志津川湾だった.
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東北地方太平洋沖地震が引き起こした大津波は,岩手県宮古市田老(たろう)地区では,津波は高さ 37.9m のところまでまで駆け上がった. また,宮城県南三陸町にも津波は襲いかかり,町の3つの川を逆流(遡上),内陸深く進入して被害を大きくした. 町の建物の,ほぼ7割弱が壊滅した.
▼2011年3月11日(金) の朝,おだやかな志津川湾を眺めて,14:46 に大地震が起きるなどとは誰も思わなかっただろう.
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この宮城県南三陸町にある南三陸ホテル観洋では,震災を風化させないためにと,ホテルスタッフなどが被災した南三陸町を案内する語り部バスツアーを運行している.
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語り部バスツアーは,朝 8:45 にホテルを出発し,標準コースは=>戸倉地区=>高野会館前=>南三陸町防災対策庁舎=>9:45 ごろホテル戻って(所要時間約60分)くる. ツアー料金は,大人 500円,子供 250円となっている.
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南三陸町には,チリのイースター島から贈られた本物のモアイ像がある. サンゴで作られた目があるモアイ像は世界でも2体しかないものだ. なぜ南三陸にモアイ像があるのか. 事の始まりは1960年(昭和35年)までさかのぼる.
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1960年,約 1万7000km も離れた地球の反対側で,チリ地震が起きた. そのチリ地震により,三陸湾岸に大津波がおしよせ,旧志津川町(現,南三陸町)内だけでも,死者 41名,建築物の流失が 312戸,倒壊 653戸,半壊 364戸,浸水 566戸の大きな被害が出た.
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その津波がきっかけとなり,チリ共和国南三陸町は友好関係を深め,チリ津波から30 年後の1990 年には,国鳥コンドルの碑がチリから贈られた. 1991 年には当時の竹下登首相が発案したふるさと創生事業を使って,チリ本土の石でモアイ像を作って志津川地区の松原公園(チリプラザ)に設置された.
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今回の大津波モアイ像が流されたことを知り,イースター島の石材を切り出し,本物のモアイ像を制作して日本に贈られたのだ.
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南三陸町の震災としてテレビなどで取り上げられるのが,南三陸町防災対策庁舎の悲劇だ. 最後まで「避難してください」とアナウンスし続けながら波にさらわれてしまった職員の悲劇のことだ...
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▼被災する前の,防災対策庁舎(左). ▼2011年3月11日15:29 ごろ(右).
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2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震直後に気象庁が発表した当初の津波予想は 6m だった. のちに気象庁は,一部の地震計が振り切れたため,正しい津波予測ができなかったと説明している. この津波予想のため,防災対策庁舎にとどまり避難しなかったことが,犠牲者を大きくする一因となった.
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南三陸町防災対策庁舎の2階には,危機管理課とコンピュータ室があり,地震直後に町の災害対策本部が置かれた. 防災対策庁舎の危機管理課が発信した防災無線の放送音声は全て録音され,その経緯がわかっている.
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14:46 から,防災対策庁舎津波が襲いかかる 15:25 ごろまでの約30分間,危機管理課の女性職員は,防災無線放送で「高台に避難してください」,「異常な潮の引き方です,逃げてください」などと繰り返し住民に避難を呼びかけ続けた. その回数は62回にもなった. 当初の呼びかけの津波の高さは「最大で6m」だったが,最後の4回のみ「10m」に訂正されて放送されていた. この時すでに,隣の病院へは移動できなくなっていたと思われる. それでも放送を続けようとする女性職員の声をさえぎるように,「未希ちゃん上がって」という声を最後に放送が途切れる.
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防災対策庁舎の屋上に逃げたのは,町長と職員,そして地域住民の 52名. 防災対策庁舎は鉄骨造りの3階建てで,地上から屋上までの高さは 12m だった. それに対して,南三陸町志津川地区の津波の高さは,防災対策庁舎15.5m にもなった.
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屋上を取り囲むように設置されていた転落防止用手すりの強度は弱く,その手すりごと波にさらわれてしまった. 強度のあった非常階段の手すりにつかまっていた人と,アンテナにつかまっていた人のみ流されなかった. 結局,屋上にいた52人のうち,10人のみが助かり,1人が津波にさらわれるも,流れてきた畳に乗って 400m 離れたビルに乗り移り無事生還,だが41名が死亡または行方不明となってしまった.
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最後まで防災無線で避難を呼びかけ続けた女性職員は,波にさらわれ行方不明だった. 女性職員は,2011年9月10日には宮城県松島町のホテルで結婚式を挙げる予約もしていた. 犠牲になった女性職員の行動は,「多くの命を救った命がけのアナウンス」として,2012年の埼玉県の公立学校の道徳教材に掲載された.
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南三陸町をはじめリアス地形の三陸海岸では,過去にも大きな津波災害が起きている. 1896年(明治29年)の明治三陸地震(M7.6-M8.5)の大津波では,約1240人(全体で(2万2000人)が死亡. 1933年(昭和8年)の昭和三陸地震(M7.8-M7.9)の大津波では,87人. 1960年(昭和35年)の南米チリで発生したチリ地震(M8.5)による大津波では 41人が死亡している.
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南三陸町防災対策庁舎をめぐり,保存か解体かで,町が真っふたつに割れている. 津波の犠牲になった遺族からは「(つらい記憶が思い出され)もう見たくない」,「(多数の犠牲者を出した建物を)見世物にしていいのか」という痛切な思いから解体を希望している. 一方で,チリ津波を知っている人も少なくなり,本来居住区にしてはいけないところに住んでしまった. 将来,再び起こりうる災害に対し,記憶を後世に伝えていくこととして津波遺構保存は重要だ.
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津波被害のシンボルとなっている,防災対策庁舎を,保存か解体かするのかは,宮城県の判断に移っている. 宮城県の震災遺構有識者会議では,県内の9つの震災遺構の中でも,「南三陸町防災対策庁舎は貴重な遺産として残すべき」と決定された.
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南三陸町佐藤仁町長が二転三転とブレたことなどから,遺族の不信感となってしまった. そのようなことから,職員遺族は南三陸佐藤仁町長を告訴した. 告訴は,保存解体を問うものではなく,「津波の犠牲になったのは佐藤仁町長が高台に避難させなかったため」の業過致死容疑となっている. 南三陸町の被災前の防災マニュアルでは,想定津波は 6m で,5階建て以上の建物に避難することになっていた.
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志津川湾の被災前の堤防の高さは,日本水準原点(T.P.=東京湾平均海面)+4.62m で,1978年に発生した宮城県沖地震(M7.5)を想定したものだった. 堤防の高さの設定は,コストの関係から過去に起きた津波の最大を想定したものにはならない. 記録に残る複数の津波の高さを参考に,頻度の高い津波を基準に想定にしている. 東北地方太平洋沖地震クラスの津波の場合は,安全な場所にまよわず逃げることを前提にしている. 最近では防災とはいわず,減災ということも多い.
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新たに造る堤防の高さは,日本水準原点+8.7m となり,今回南三陸町防災庁舎を襲った津波の15.5m よりかなり低い. そのため,海岸沿いの地域には,商業区や工業区用途としか使えない. 学校も建設できない. 居住区は高台移転となる.
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