肺結核(結核)は,日本では弥生時代からあったといわれる. 大きな流行になるのは,都市化が進んだ江戸時代から明治時代になってからとなる. 古くは労咳(ろうがい)や労瘵(ろうさい),肺労,労症などとよばれた. この病が「疲れ,衰弱,消耗する」ことなどからこのように言われた.
▼日雇労働者が集まる大阪あいりん地区の結核感染者が異常に多いことがわかっている(右).
古い治療方法は,「養生」といい風通しの良い場所で安静にして十分な栄養を取るということしかなく,自分の免疫力で結核菌を抑え込み,自然に治ることを待つしかなかった. 結核が重症化すると,ただただ死を待つしかなく,決して治らない病気「不治の病」と言われた.
明治維新後,大規模な養蚕業(製糸業)が盛んになり,生糸や絹織物が米国などに輸出されるようになると,女工を中心とする工場労働者間で結核が流行するようになる. 都市部で結核に感染した女工労働者が郷里に帰り,農村部でも結核を広げることになる.
1950年ごろは,20歳で半分以上が結核菌に感染(自然陽転)していた. 「感染」した人の90%以上は症状なく一生を過ごすが,5%-10% の人が結核を「発症」する. 「感染」と「発病」は全く意味が違う. 結核は,1935年ごろから終戦まで病死第1位(全死亡の12%程度)で亡国病(国民病)とも言われた.
ドイツヴォルシタイン地方の保険技師だったハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホが,1882年に「結核菌を発見した」と世界に報道された. ヒト型結核も細菌が病原体であることを証明した. これがきかけとなってベルリン大学衛生学教授となり,日本からも北里柴三郎(のちに私立伝染病研究所を設立)が国費でドイツに派遣(1886年)され,ロベルト・コッホとともに6年間細菌学(伝染病)の研究をおこなう.
そしてロベルト・コッホは,1890年にツベルクリンを発表する. 世界は「魔法の薬」として歓喜したが,期待の予防血清(ワクチン)としての機能はなかった. ツベルクリンは,結核菌を培養した液体を殺菌したもので,結核菌に関係するタンパク質の集合体だった. ツベルクリンは,現在も結核感染診断として活用されている.
結核ワクチン(BCGワクチン)は,1921年にフランスのルイ・パスツール研究所のカルメットとゲランによって開発されることになる. もともと毒性の弱いウシ型結核菌を13年間に何世代も培養しながら弱毒化することに成功した. ワクチンによって事前に自己免疫を活性化させて結核予防をおこなう方式となる.
結核予防のための弱毒生菌ワクチンとして世界中で利用されるようになる. 日本では,1924年にパスツール研究所からこの株が提供され,1938年から正式にBCG接種が認められた. 1950年からは,液体ワクチンから長期保存可能(現在の保存期間は2年)な乾燥ワクチンになっている.
以前の方法では,まずはツベルクリン反応検査注射(ツ反)を行い,陰性のヒトのみBCG接種を幼児期,小学,中学の3回おこなっていた. 予防接種法(定期予防接種)に基づいて公費助成となる. その後,世界保健機関(WHO)から「BCGを2回以上接種することは無意味である」との勧告などを受け,2005年からツベルクリン反応検査なしで生後6カ月未満(生後5カ月から8カ月の間)の幼児に1回のみ接種することとなった.
さらに2014年から生後1年未満に変更(骨炎の副作用を否定できなかったため)されている. これにより,幼児髄膜炎などが減っている. 1回の接種で,結核感染予防として 50年-60年間(10年-15年説もある)の有効性が持続するといわれる.
1944年,ドイツ系米国セルマン・ワクスマンがカビの放線菌から作り出したストレプトマイシンは結核に劇的な効果があり,まさに「魔法の薬」となった. 戦後の混乱の続く1950年までは,年間10万人が結核で死亡していた. 近年でも結核は今でもなお最大級の感染症で,2012年には全国で2万1283人の結核患者が新たに発生し,2110人が結核で亡くなっている. 2015年には全国で1万8280人の結核患者が新たに発生し,死亡数1955人が結核で亡くなっている. 現在でも日本最大の感染症のひとつとなっている.
結核ワクチン(BCGワクチン)は,乳幼児には絶大な効果は認められるものの,大人ではほとんど効果がないのではないかといった報告が出ている. それを証明するような事件が船橋で発生した...続きを読む
▼日雇労働者が集まる大阪あいりん地区の結核感染者が異常に多いことがわかっている(右).
古い治療方法は,「養生」といい風通しの良い場所で安静にして十分な栄養を取るということしかなく,自分の免疫力で結核菌を抑え込み,自然に治ることを待つしかなかった. 結核が重症化すると,ただただ死を待つしかなく,決して治らない病気「不治の病」と言われた.
明治維新後,大規模な養蚕業(製糸業)が盛んになり,生糸や絹織物が米国などに輸出されるようになると,女工を中心とする工場労働者間で結核が流行するようになる. 都市部で結核に感染した女工労働者が郷里に帰り,農村部でも結核を広げることになる.
1950年ごろは,20歳で半分以上が結核菌に感染(自然陽転)していた. 「感染」した人の90%以上は症状なく一生を過ごすが,5%-10% の人が結核を「発症」する. 「感染」と「発病」は全く意味が違う. 結核は,1935年ごろから終戦まで病死第1位(全死亡の12%程度)で亡国病(国民病)とも言われた.
ドイツヴォルシタイン地方の保険技師だったハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホが,1882年に「結核菌を発見した」と世界に報道された. ヒト型結核も細菌が病原体であることを証明した. これがきかけとなってベルリン大学衛生学教授となり,日本からも北里柴三郎(のちに私立伝染病研究所を設立)が国費でドイツに派遣(1886年)され,ロベルト・コッホとともに6年間細菌学(伝染病)の研究をおこなう.
そしてロベルト・コッホは,1890年にツベルクリンを発表する. 世界は「魔法の薬」として歓喜したが,期待の予防血清(ワクチン)としての機能はなかった. ツベルクリンは,結核菌を培養した液体を殺菌したもので,結核菌に関係するタンパク質の集合体だった. ツベルクリンは,現在も結核感染診断として活用されている.
結核ワクチン(BCGワクチン)は,1921年にフランスのルイ・パスツール研究所のカルメットとゲランによって開発されることになる. もともと毒性の弱いウシ型結核菌を13年間に何世代も培養しながら弱毒化することに成功した. ワクチンによって事前に自己免疫を活性化させて結核予防をおこなう方式となる.
結核予防のための弱毒生菌ワクチンとして世界中で利用されるようになる. 日本では,1924年にパスツール研究所からこの株が提供され,1938年から正式にBCG接種が認められた. 1950年からは,液体ワクチンから長期保存可能(現在の保存期間は2年)な乾燥ワクチンになっている.
以前の方法では,まずはツベルクリン反応検査注射(ツ反)を行い,陰性のヒトのみBCG接種を幼児期,小学,中学の3回おこなっていた. 予防接種法(定期予防接種)に基づいて公費助成となる. その後,世界保健機関(WHO)から「BCGを2回以上接種することは無意味である」との勧告などを受け,2005年からツベルクリン反応検査なしで生後6カ月未満(生後5カ月から8カ月の間)の幼児に1回のみ接種することとなった.
さらに2014年から生後1年未満に変更(骨炎の副作用を否定できなかったため)されている. これにより,幼児髄膜炎などが減っている. 1回の接種で,結核感染予防として 50年-60年間(10年-15年説もある)の有効性が持続するといわれる.
1944年,ドイツ系米国セルマン・ワクスマンがカビの放線菌から作り出したストレプトマイシンは結核に劇的な効果があり,まさに「魔法の薬」となった. 戦後の混乱の続く1950年までは,年間10万人が結核で死亡していた. 近年でも結核は今でもなお最大級の感染症で,2012年には全国で2万1283人の結核患者が新たに発生し,2110人が結核で亡くなっている. 2015年には全国で1万8280人の結核患者が新たに発生し,死亡数1955人が結核で亡くなっている. 現在でも日本最大の感染症のひとつとなっている.
結核ワクチン(BCGワクチン)は,乳幼児には絶大な効果は認められるものの,大人ではほとんど効果がないのではないかといった報告が出ている. それを証明するような事件が船橋で発生した...続きを読む